名を呼ばれた明吉良はうなずいた。三月前のあのときとは服装も髪型も違い、背も伸びたようだったが、その子どもっぽいしぐさだけは少しも変わっていなかった。
「わたしだけでなく、明吉良の君まで拐かすなんて。近頃の賊は、いい度胸をしているわね」桃生は憤然として言った。今までは一人きりだったので静かにしていたが、話せる相手を得たことで、桃生の口からはあらゆる文句がほとばしり出た。「だいたい、宮の衛士は何をしていたのかしら。こうもやすやすと賊に侵入されて、怠慢もいいところだわ。宮中の警備って、変なところで間が抜けているのよね。きっと、そこを賊につけいられたに違いないわ。姫御子が襲われていて、しかも助けを呼んだというのに、誰も駆けつけてくれないなんて――あら。明吉良の君、どうかしたの?」
明吉良が喉を押さえているのに気がついて、桃生はたずねた。「痛いの? ちょっと見せて」
桃生は点検したが、明吉良の喉は白く滑らかなばかりで、内側から腫れているようすも見られなかった。他のところもざっと目を通したが、怪我をしているところはなかった。
「ねえ、わたしたちがここに連れてこられたのは昨日の晩なの? わたしは気を失っていたから、よくわからないのよ」
桃生がたずねると、明吉良はしばらく考えてからうなずいた。
「それなら、あまり遠くまでは来ていないわね」
桃生は立ち上がり、裳についた砂をはらった。「この近くで賑やかなところに行きましょう。市か何かがいいわ。そこには役人がいると思うの。宮に使いを出してもらえば、すぐに迎えが来て帰れるわ」
そこまでうまくいくとは思えなかったが、桃生は自信ありげに微笑んでみせた。けれども、明吉良は座りこんでいて立とうとせず、桃生は仕方なくもう一度しゃがみこみ、明吉良と目線を合わせて説きふせた。「父様や兄様の助けがくるのは、いつになるかわからないわ。もちろん、必死になって探してくれているだろうとは思うけれど。わからないものを首を長くして待つより、こちらから行きましょう。怪我をして動けないというならともかく、わたしたちは今動けるのだから」
桃生が手を差しのべると、明吉良はためらいがちにその手をとった。桃生はにっこりと笑った。「じゃあ、行こう」
「ちょっと待って」
言ったのは当然ながら桃生ではなかった。明吉良の君でもないはずだった――彼は唖なのだから。しかし、口をきいたのは桃生の隣にいる青年だった。
桃生は自分でも驚くような速さで青年の手を放し、植えこみの木まで後ずさった。
「あなた、だれ」
「明吉良」青年は困りはてたようすで答えた。
「明吉良の君は話せないわ。なのに、あなたは話している」
「話せるようになったんだ」
「どうして。あり得ないわ」
「ええと、それは――」明吉良の君に似た青年は、なんとか説明しようとしているらしかった。「……大鷹殿が僕から切り離されていた『声』を持ってきたんだ。それを体に入れて、僕の魂とまた一つにしたので、話せるようになった」
「大鷹というのは誰なの」
「大きい人。鷹という名だが、熊に似ている」
「外見なんて聞いていないわ」
青年は悲しげに目線を落とした。「ごめん……よくわからない。何を言えばいいんだろう」
「その人は、何をする人なのかと聞いているのよ」桃生はぎくりとしつつ、さっきよりはやわらげた声で言った。
「何をしているかは知らない。でも、まほろばに行く前の僕と遊んでくれたことがあると言っていた」
「まほろばに行く前? 遊んでくれた?」
桃生がいぶかしげに聞き返すと、青年はこくこくとうなずいた。
「……その大鷹殿は、あなたに『声』というのを渡した後はどうしたの」
「ここへ連れてきた。桃生も一緒に」
(この人は本当に明吉良の君なんだろうか……)どう見ても青年は明吉良の君そのものなのだが、話せるようになっているのが桃生に疑惑を抱かせていた。(……『魂』がどうとか言っていた。それで話せるようになったのだとすれば――この人が明吉良の君なのだとすれば、ここは佐保の残党の隠れ家ということになるけれど……)桃生は、前に中角に聞いた話を思い出していた。桃生が考えこんでいるあいだ、青年は桃生をうかがうように見て待っていた。
「――信じる。あなたは明吉良だわ。ここまで似ている人なんて、そういるはずがないものね。いきなり話せるようになっているのがわからないけど、でも、信じるわ」
やがて桃生が言うと、青年は安心して微笑んだ。「よかった」
それは、桃生の記憶の中のものとぴったり合致する笑顔だった。桃生は全部ではないが警戒を解いて、青年に近づいていった。「おめでとう」
「え?」
「だって、仲間のところへ戻れたんでしょう。それに、話せるようにもなっているし。いいことずくめだわ。だから、おめでとうと言ったの」
しかし、明吉良は首を傾げていた。
「うれしくないの?」
「わからない……うれしいのかな」
「とつぜんだから実感がまだ湧かないのよ」桃生はもう一度笑いかけて言った。「よかったね、明吉良」
今度は明吉良も笑った。つぼみがほころんだような花の笑みだった。桃生のうれしさはさらに増して、二人はしばらく和やかな雰囲気で笑みを交わしていた。
「でも――明吉良はいいとして、わたしはどうしてここにいるのかしら」桃生はやっと肝心なことに気がついた。
明吉良が「わからない」と言うよりも早く、木立の影から男が颯爽とあらわれた。
「その理由は、わしに説明させていただけるか。稀なる姫よ」
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