闇き乙女

第一章

まほろば

 まだ薄もやが漂っているというのに、大路はたいへん賑々しかった。人の波でごった返し、その中を、商品が乗せられた荷台が多く通り過ぎる。薪を背負って売りに来る者もあれば、何かを詰めた手籠を持っている者もいた。彼らが向かうのは市場であり、そこで持ち寄った品々を売り買いするのだ。
「ここまで来られたら、後は自分でできると思うわ――ねえ、明吉良、そろそろ帰ったら?」冷たく聞こえないように注意して、桃生はにこやかに言った。これで一体、何度目だろうか。
「桃生が役人に会えて、ちゃんと帰れるようになるまで着いていくよ」明吉良もまた、微笑んで答えた。
 桃生はうめきたかったが、おくびにも出さなかった。ありったけの忍耐力をかき集めて、もう一度笑いかける。
「心配してくれるのはありがたいけど、本当に平気よ。子どもじゃないもの。それに、早く戻らないと、明吉良のほうがたいへんなことになるのではないかしら」
「大丈夫だよ」明吉良に考えを変えるつもりはないようだった。
 桃生はため息をついた。あの屋敷から逃げだすことができた今、明吉良の存在はお荷物以外のなにものでもなかった。頼りになりそうなのは見せかけだけだったのだ。明吉良は驚くくらいにものを知らず、経験もなかった。ただ体が成長しただけの、小さな子どものようだ。この十数年間、明吉良はまほろばの宮で、本当に何をしていたのだろう。
(なるべく快く別れたいと思っているのに……)この日が来るまでにはいろいろなことがあった。計画を練って指示を出したのはすべて桃生だったが、それは明吉良が協力してくれなければどうにもならなかったのだ。桃生はそれなりに感謝していた。
 市に向かう人々は活気にあふれていたが、その身なりは慎ましく質素なものだった。桃生の服装は宮にいたころのものとは替わっていた。屋敷で用意されたものに取り替えていたのだが、それでも充分にきらびやかだったし、明吉良のほうはこざっぱりと装いながらも腕輪や首飾りなどの装飾品の類で、通り過ぎる人の目をひいていた。加えて、美貌の明吉良は、その顔だちが人々の記憶に残りやすいのだった。屋敷の者たちが二人のことを捜して聞き回れば、すぐに居所を知られてしまうに違いない。それを考えると、明吉良には、やはり帰ってもらったほうが良かった。
「桃生は、市に来たことがある?」注目されていることなど、まるで感じていないようすで、明吉良がのんびりと聞いた。
「ないわ。町の中を歩くのも初めてなのよ。輿でなら通ったことがあるけれど。明吉良は?」
「一度だけあるらしい。大鷹殿がそう言っていた」
「明吉良は、そのときのこと、覚えていないの?」
「うん」
 覚えていないなら初めてと同じだと、桃生は思った。まったく頼りにならない。
 露店がぽつぽつと現れはじめたかと思うと、あっという間に、それらは大路に沿って隙間なく立ち並んでいた。もう道などではないのかもしれないが、広場と呼ぶには細長すぎる場所だった。数え切れないほどの店が、遙か彼方までずらりと並ぶ光景は壮観だった。
 桃生はしばし目的を忘れてはしゃいだ。まだ早い時間のため、ほとんどの店が準備をしている真っ最中だったが、そのようすを見るのも楽しかった。むしろやござをひき、その上に商品を並べるといった形式の店がほとんどで、さらに、木の骨組みに布を張って日よけをしつらえる店もあった。売られているものは本当に千差万別で、食材だけを見ても、海の幸や山の幸、ありとあらゆるものがそろっていた。桃生の見たことがない、得体の知れないようなものも中にはあった。
 もちろん、明吉良も楽しんでいた。手放しに喜ぶことのできる明吉良は、こういうときには最高の連れだった。彼がうれしげに笑うと、桃生の中の楽しさも増してくる。二人は店のあいだを行ったり来たりして、市場というものを堪能した。
 太陽が完全に顔を出し、あたりは明るくなっていた。客の姿も多くなっている。混み出すのも、もうすぐだった。充分に満足した桃生たちは、当初の目的どおり、役人を捜し始めたが、なかなかそれらしい人物は見つけられなかった。
「誰かに聞いてみましょうか」桃生は提案して、人の良さそうな中年の女性に声をかけた。彼女も店を開いていたが、いかにも暇そうで、商売よりも客とのおしゃべりに熱心だった。
「お役人? 今日は来ないよ。監査の日じゃないからね」
 あっさりと言われて、桃生は目を丸くした。「か――監査?」
「あんまり大したことはしないけどねえ。月に一度か二度、やって来てはいろいろと文句をつけるんだよ。なんだい、毎日来るものだと思っていたのかい」
「違うんですか?」
「あんなもの、毎日来られたらうるさくてかなわないよ」
 桃生は目の前が真っ暗になったような気がした。「沼羽のところの兄様が市を見回る仕事の話をよくされるから、わたし、毎日のことだとばかり思って……」
「お嬢ちゃん、お役人に会いたいの?」桃生のようすがあまりにも悲愴だったのか、おばさんは優しくたずねた。
 桃生は声を出す気力すらなく、肩を落としてうなずいた。
「お屋敷に行ってみたらどうだろうね。あそこの主人は、ここいらの統治を上様から直々に任されているから。そういうおかたも役人にはいるんだろう?」
「ええ。そのお屋敷、どこにあるんでしょうか」一筋の光が差し込んだようだった。桃生は思わず身を乗りだした。
「近いよ。あんたたちでも楽に行けるだろうよ。ここを西に突き抜けて――」おばさんはとても丁寧に教えてくれた。話好きだけあって、説明がうまかった。
 しかし、桃生は聞いているうちに、だんだんと不安を覚えていった。おばさんのいうお屋敷、それはもしかして――「そこの主人、沙流という名ではありませんか」
「おや、ご存じなのかい。沙流王だよ」
 返ってきた言葉に、桃生はさらに衝撃を受けた。(謀反人が王なんて。彼らは朝廷の内部に入りこんでいる――)一刻も早く、この危険を父や兄に知らせる必要があった。
 桃生は急いでたずねた。「関所は? ここから一番近い関所はどこですか」そもそも、ここはどこなのだろう。そんなことさえ把握していない自分が腹立たしかった。
「関所だって」おばさんは驚いた声をあげると、なぜか明吉良のほうをふり向いた。「このおにいさんは腕が立つのかい」
「腕が立つ?」明吉良は言葉の意味がわからないらしかった。
「立ちます。大丈夫です」桃生はとっさに答えていた。そう答えるべきだと、直感が告げていた。
 おばさんがまじまじと明吉良を見た。一つの武術も身につけていない明吉良が強いはずがなかった。うそを見抜かれるのでないかと桃生はどぎまぎしたが、それはとりこし苦労に終わった。何もしていなければ、明吉良はたいへん立派に見えるのだった。
「あのあたりは追いはぎが出るんだよ」おばさんはおどろおどろしい口調で言った。「しかも遠い。今から行ったら、着くのは夜だ」
 桃生はややひるんだが、気持ちを励まして言った。「行く道を教えてください。なんとかなりますから」
 おばさんは桃生の覚悟のほどを確かめるように見つめていたが、やがてにやりと笑った。「駆け落ちなのかい?」
 桃生は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。「――は?」
「とぼけなくてもいいんだよ。安心おし。あたしは味方だよ――あんたたち、恋人同士なんだろう?」
 客の女が口を挟んだ。「なあに、お二人とも、仲を反対されているの? 身分の高いかたがたはたいへんだわね」
「許されざる果ての逃避行ってやつか。頑張りなよ」
(どうしてそうなるの。駆け落ちする人間が、役人に会いたがるなんて、考えなくてもおかしいじゃないの)桃生は否定したかったが、あまりのことに声が出なかった。気がついてみれば、市場中の注目が自分たちに集まっている。恥ずかしがることは何もないのに、なぜか、桃生の顔はどんどん赤くなっていった。
「本当に恋人なの?」そのとき、いぶかしげに聞いたのは若い娘だった。どうも明吉良のことが気に入ったようすで、桃生との仲を認めたくなかったらしい。
 桃生はこれ幸いと否定しようとしたが、ふと口をつぐんだ。もしかすると、これは好機なのかもしれない――
「ええ、そうよ」桃生は顔がひきつるのをなんとか抑えた。
「やっぱりねえ」野次馬の一人がため息をついた。「あんなに仲が良いんだから」
 桃生は両手で顔を覆いかくし、哀れっぽく語った。「誰も賛成してくれないんです。特に父が怒って、わたしはとうとう遠国へ行かされそうになり……」
「なるほど。それで、駆け落ち」
(お願いだから、駆け落ちとか言わないで)桃生は心で叫びつつ、言うべきことを言った。
「父の差し向けた追っ手が来るかもしれません。どうか、人にたずねられても、わたしたちのことは言わないでもらえないでしょうか」
「ここにいる皆、協力するよ」
 おばさんは力強く言った。そのとたん、市のあちらこちらで同意の声があがる。この手の話を好むのは、宮廷人には限らなかったようだ。企みがうまくいったようすに、桃生はほっと胸をなで下ろした。どれだけの効果があるものかわからないが、少しはやつらの目をくらませられるだろう。
 おばさんから詳しい関所までの道順を聞き、礼を言うと、桃生は逃げるようにその場を後にした。市場が見えなくなったところで、桃生はやっと立ち止まり、後ろをふり返った。明吉良はちゃんとついてきていた。
 明吉良がさっきの作り話の意図に気づいたかどうかは疑問だったが、今さら説明するのも白々しいような気がした。桃生がどうしようかと考えていると、明吉良は首を傾げてたずねた。
「色男とは、何のことなのだろう」どうやら野次馬にいろいろと言われたらしい。
「色のついている男のことよ」桃生はめちゃくちゃなことを教えた。
 明吉良は腕組みをして、今度は桃生の言ったことを考えているようだった。桃生はため息をついて、青々と晴れわたる空を仰いだ。

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