闇き乙女

第一章

まほろば

 宮の中は、まるで人払いをしたように静まりかえっていた。帯壬の帰還のため、皆が広場につめかけているせいだ。
 これなら和可女もいないのではないかと、桃生が試しに部屋をのぞいたら、本当にいなかった。彼女も、桃生が出た後に行ったらしい。なんとなく奇妙な感じがするが、これが普通なのかもしれなかった。なにせ、日継ぎの御子が帰ってきたのだから。
 部屋にいても良かったが、桃生はそこから離れた。めずらしく無人な部屋は不気味で、心細くもあった。手近なきざはしを使って、庭へと降りる。こぎれいに植木の調えられた庭には、とりどりの花が咲きそろい、甘い芳香をはなっていた。枝にとまった小鳥がさえずっているのも見かけた。目的もなく、桃生がぶらぶらと庭を散策していると、ふいに小手毬こでまりの茂みが揺れた。
(狸、かな?)
 子どもの狸を庭で見かけたと姉が言っていたのを思いだし、桃生は足を止めて待った。
 だが、現れたのは人間だった。茂みの後ろにしゃがんでいたものが、桃生が来るのを聞きつけて立ちあがったらしい。桃生よりいくらか年上に見える青年だった。まとっている高価な着物を見れば、そうとう身分が上らしい。
 桃生は困惑した顔で相手を見つめたが、その相手も同じように戸惑った顔で桃生を見ていた。繊細な顔だちの、とてもきれいな青年だった。
 相手の顔をじっくりと検分できるほどの時間が経った頃、桃生はさすがにまずいような気がしてきた。桃生はいちおう深窓の姫であり、みだりに姿を見せていけないとされているからである。
 だからといって、いますぐ回れ右して立ち去るのは不躾ぶしつけだった。相手が何者かわからないので、なおさら下手なことはできない。とりあえず青年の顔から視線をはずし、下を向いた桃生は、青年の白い手首に御子のしるしの腕輪がはまっているのを見つけた。兄君なのだ。
(でも、どこの兄様だろう……?)同胞はらからの兄は帯壬以外にいないが、腹違いの兄となるとその数は知れなかった。覚えるように努力はしているものの、如何せん数が多すぎて把握しきれずにいる。桃生は必死になって思いだそうとした。だが、いくら考えてみても、思いあたる兄はいないのだった。
 桃生はふたたび青年の顔を見上げた。ひらめいたのはそのときだった。
明吉良あきらの君ですか? もしかして」
 明吉良の君は、厳密に言えば桃生の兄ではなかった。どこかの国からの養子で、毎日の暮らしを隠者のようにひっそりと過ごしている。公式の場であろうと非公式の場であろうと、滅多にその姿を現すことがなく、その存在は伝説化しつつあった。
 桃生は実物を目にしたことはなかった。ただ、とても美しい青年だと聞いている。
 青年はにっこりと笑った。桃生は正解したことがわかってほっとした。
「わたしは桃生と言います。ご存じないかもしれないけれど、あなたの妹です。帯壬命ならわかるでしょう? あれの実妹ですわ」
 桃生は、宮廷に迷いこんだ狸よりもめずらしいものを目の前にしているのだった。桃生は興奮して口早にしゃべったが、明吉良の君が弱ったようすでいるのに気づいて、口をつぐんだ。
「すみません。うるさかったかしら」
 明吉良の君は首をふった。そのしぐさが幼い子どものようで、桃生は思わず微笑んだ。「兄様はちっとも話されないのね。口をきかないという願かけでもしているのですか?」
 桃生が無邪気にたずねると、明吉良の君の顔がかげった。桃生は失言だったのを悟り、それと同時に明吉良の君に関するもう一つの噂を思いだした――明吉良の君はおしだったのだ。話すことはできない。
「そうでしたわね。兄様は特別なおかただったのですわね。ごめんなさい。忘れておりました」
 桃生は気まずげに謝った。明吉良の君も、なんとなく落ちこんだらしかった。庭はあいかわらず静かでのどかだったが、今はそれが重たく桃生にのしかかってくるようだった。
「あの、わたし、そろそろ戻ります。お邪魔いたしました」長い沈黙の後、桃生はやっとそれだけ言った。不作法だったが、桃生は居たたまれなさの極みにあり、そんなことを気にする余裕はなかった。まるで逃げだすように庭を後にした。
 一行の出迎えが終わったらしく、いつの間にか、宮の中には人々が戻ってきていた。騒がしくはないながらも活気にあふれ、華やいだ雰囲気に満ちている。がらんどうだった先程が嘘のようだ。
 最後のあたりから駆けだしてきた桃生は、止まって息をついた。いつもと変わりない宮中に戻ると、明吉良の君に出会ったことが、とたんに夢かまぼろしのように思えてきた。桃生はふり返ったが、そこに明吉良の君の姿はなかった。
(部屋に戻ろう)庭の植えこみから視線を移し、桃生は自分の立つ回廊のようすを見回した。
 宮中の庭は一応それぞれに区切られているものの、囲いなどがあるわけではないから、行こうとすれば別の庭へでも入れてしまう。しかし、それは礼儀に反することであり、決して誰もやったりはしない……はずなのだが。
 桃生は冷たい視線で見られながらそのあたりをうろうろし、ここは侍女たちの寮だという結論に達した。礼儀を守らなかった代償はけっこう高くついた。回廊を通る女官などの視線を背中に痛く感じながら、桃生はそそくさとその場所を離れた。
 自室に戻ろうとした桃生だったが、角を曲がったところでふと足を止めた。水の焼ける匂いがして、あたたかな空気がどこからか漂ってくる。湯屋が近いのだった。
 桃生はちょっと考えこんだ。おそらくあれは、遠征から戻った帯壬命がその疲れと汚れを落とすために準備されたものだ。
 帰還したばかりの兄には休息が必要だし、皇に報告をしなければならなかったりして、しばらく時間が経ってからでないとじかには会えない――しかし、今ならどうだろうか。
 必要なときには頭が働かず、いらないときには働く桃生であり、それで和可女をいつも嘆かせている。裳裾をさばいて、桃生はくるりと向きを変えた。立ちのぼる白い湯気を目標に、湯屋を目指す。桃生がたどり着いたちょうどそのときに、丈高い影があらわれた。いかにも上機嫌なありさまで、桃生の姿を認めると、彼はますますうれしげに目を細めた。
「このとおり無事に帰ってきたよ。わが妹君は出迎えてくれなかったようだが……」
 せせらぎのように快く響く声だった。けれども桃生は、非難をこめてさえぎった。「先ぶれの使者くらいはお寄越しになってください、兄様。宮廷じゅうの者が皆、迷惑したんですよ」
「たまには、ああいうのもいいだろう。刺激があって」
 向き合う兄妹はあまり似ていなかった。帯壬の顔だちが誰をもふり返らせてしまうほど麗しいのに対し、桃生はごくふつう程度の容姿しか持ち合わせていないのだった。兄御子と並ぶと実にそれが際だって、とにかく地味な感じのする娘なのだが、帯壬の影にかすんでしまうということだけは不思議となかった。
「帯壬様、急がれませぬと。皇がお待ちにございます。姫様もお気持ちはわかりますが、どうぞ後になさって――」付き従っていた従者が急かしたが、帯壬はどこ吹く風だった。
「堅いことを申すな。じつに一年――いや、それ以上のあいだ会っていなかったのだから」帯壬は桃生の頭をなでた。彼は背が高く、桃生は兄の胸のあたりまでしかとどいていない。「大きくなったようだ。たしか桃生は、この月で十七になったのだったね」
「十五です」桃生は訂正した。「兄様がお年を召されているからといって、わたしまで一緒に老けさせないでくれます?」
 帯壬はその見た目よりも年を取っていて、そろそろ三十路に近かった。宮中の年齢層から考えると若造のようなものだが、桃生から見れば立派に年寄りだった。
 桃生のその発言に、帯壬の後ろで控えていた従者は眉をひそめたが、言われた本人は愉快そうだった。「桃生姫はなにやら機嫌がお悪いらしい」
「新しい妃を娶られたそうですね」桃生は気持ちを静めて言った。
「ああ、そうだけれど」
「どういうことなのですか。もう妃は増やさないと、印南の姫のときに約束してくださったでしょう」
 桃生がしかめっ面ですごむと、帯壬はきょとんとした表情になった。――忘れていたらしい。
「信じられない」
「もしかして、妬いている?」
「馬鹿おっしゃらないで。誰がやきもちなど焼くものですか。恥ずかしいのよ。身内が、しかも同胞はらからの兄が、十数人もの妻を持っているなんて。自分がどういうふうに言われているか、兄様はご存じ?」
「もちろんだとも。たいていおもしろいものばかりだが、三年前に市で流行った戯れ歌は傑作だったね。あれが一番気に入っている」
 帯壬は、にこにこと笑いながら言った。いきなり帰ってきて皆を驚かせるといういたずらが成功したためか、たいへん機嫌が良かった。
「それが、どれだけわたしの評判に響いていると思うの」
 桃生が怒鳴ると、帯壬はたちまち笑みをひっこめ、きまじめな顔になった。「すまない。おまえがそんなに奥ゆかしい娘だったとは知らなかった」
「わざとらしい。兄様、ふざけているでしょう」
「たまに真剣な顔をすると疲れるねえ」帯壬は認めて、いつものような楽しげな顔に戻った。
「新しい妃って、どんなかたなの?」桃生は詰問口調でたずねた。
「さあ。桃生があのかたをどのように思うかは、わからないね。わたしは好ましく思うけれど」
「美人?」
伊志治いしじは、稀に見る美女だと誉めていた」誰も言わないことだが、美しいものに対する帯壬の感覚はかなりずれていた。美女を不細工というときもあったし、その逆もしばしばだ。よって彼の妻たちの中には、絶世の美女もいれば、むくつけき醜女しこめもいたりする。桃生にはいまいち理解できない現象だった。
 しかし、兄の部下の中でもまともな見解をもつ伊志治がそう言うなら、本当に美しいのだろうと桃生は考え、それはそれでおもしろくなかった。
「桃生、今宵は空いているか。できれば早いうちに、おまえと速津はやつ姫を引き合わせたいと思っているのだ」
「暇です」桃生は息巻いて答えた。こうなったら新しい妃とやらを、一刻も早く検分してやらなければ気が済まなかった。
「では、時間になったら使いをやるから――」言いさした帯壬は、ふと言葉をとめて微笑んだ。「お迎えだ」
 桃生が嫌な予感にふり向くと、そこには和可女が厳めしい形相でたたずんでいた。
「帯壬様、申し訳ございませぬ。わたくしが至らないばかりに姫様が――」
「構わぬ。こちらのほうがかえって息抜きになるくらいだ」
「それならばよろしいのですが。失礼させていただきます」
 和可女に連れられていく桃生を、帯壬は同情のこもった瞳で見送った。

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