闇き乙女

第一章

まほろば

 速津姫は床に指をつき、深く頭を下げた。床は完璧に磨きあげられており、ゆれる灯火のもと、姫自身の姿を鏡のように映しだしている。
 速津姫が顔を上げると、念入りに梳いた黒髪がさらさらと肩にこぼれ落ちた。目の前の御座みましには、帯壬がくつろいだふうに座っている。戦乱の最中にあってさえ麗しかった御子は、旅の汚れをすっかり落とし、いちだんとその輝きを増していた。御子の隣には娘がおり、玻璃の瓶を傾けて酒をそそいでいた。速津姫は身を強ばらせた。娘のその服装や、おざなりな給仕の手つきなど――どう見ても、娘は侍女のたぐいではなかった。
「野の原で駆けるあなたも素敵だったが、宮廷風のいでたちもお似合いになる。わたしは幸せ者ですね」帯壬の声音はそよぐ風のような響きを持っていた。
 正体のわからない女の存在に脅威を感じていた速津姫は、褒められても受け答えるどころではなかった。娘の手つきはかなり危なっかしく、いまにも酒をこぼしそうだ。帯壬はとうとう娘から瓶をとりあげた。
「これは妹です。あなたに引き合わせたいと思い、この場に参上させたのです。ご覧のとおり不出来ですが――」
「桃生と申します。豊日国からいらした義姉様ねえさま
 初めて速津姫のほうを向いた桃生は、にっこりと微笑みながら姫の姿形をつぶさに検分した。緊張のし過ぎか、顔色がやや青ざめているものの、隠れもない美人だった。全体的にふっくらとしていて、柔和な顔だちが気だての良さをのぞかせている。
「まあ――あなたが桃生姫。あなたのことは、帯壬命様がよく話してくださいました。わたくしもお会いしたいと思っておりましたのよ」妹御子が兄御子に少しも似ていなかったので、予想がつかなかったのだ。速津姫は、らちもないことを考えていた自分にどきどきしながら、あわてて答えた。
 しばらくの間は、帯壬が速津姫に語ったという、桃生が幼い頃の出来事などの他愛ない話が続いた。桃生は宮廷人の常として、始終にこやかにしており、速津姫に対する敵意などはおくびにも出さなかった。しかし、速津姫はかすかに感じるものがあるのか、強ばった態度だった。帯壬ただ一人のまわりを除いては、座敷の雰囲気は張りつめるようだった。
「わたし、そろそろ退室いたします。おやすみなさい、おふたかた」桃生はいきなり話を打ち切って立ちあがった。気がつけば、月の位置がだいぶ高くなっている。
 あたりは暗かったが、桃生が灯火のそばを横切ったとき、彼女の裳の鮮やかな色合いがはっきりと浮かびあがった。それは鮮烈に速津姫の目の中に焼きついた。美しくこそないものの、桃生には独特の愛嬌があった。表情や言葉のふしぶしにそれがにじみ出ていて、たいへん好感が持てる娘だった――敵意さえ持たれていなければ。
「宮仕えの女官に、どの妃よりも妹姫様のほうが手ごわいと言われたのですけれど、本当ですわね」桃生の姿がすっかり見えなくなると、速津姫は微笑んで言った。
「とんでもない。もっと恐いのがおりますよ。毒を盛ったり、刺客を放ったりとか。桃生がやるのはせいぜい嫌がらせ程度でしょう」
 速津姫はまた笑った。「桃生様に甘くていらっしゃる。帯壬様のそういうところが、桃生様を手ごわくさせているのですわ」
 帯壬はたわむれるのをやめ、静かに杯を置いた。
「あなたはわたしについてきてくださった」微笑むのをやめると、帯壬の顔はとたんに寂しげで幼く見えた。「もう故郷に戻ることはできません。同郷の人々はあなたを罵っているでしょう。すべての絆は断ち切られ、あなたは独りになってしまった」
「言わないで――わたくしが望んだことです。あなたの力になれるのならば、わたくしの身など、どうなろうと惜しいものではありません」
 速津姫はそっと帯壬の手に触れた。今の日継ぎの御子は、玻璃の瓶よりも傷つきやすい壊れ物のように見えた。
「国つ神の姫よ、あなたが幸せになるようにと願っています。けれども、そうなる日が来ないことを知っている。わたしには多くの妻がおり、そしてこれからも妻を迎えていくことでしょう。わたしはあなたに誠をしめすことができない。思わずにはいられないのです。わたしはあなたを不幸にしているだけではないのかと」
「あなたには果たすべきさだめがあるのですもの。わたしは承知しております。だから、どうぞ気に病むのはおやめください」
 姫は優しく言ったが、天つ御子の翳りは深まるばかりだった。
「ときどき――どこまでがさだめなのか、わからなくなります」帯壬は速津姫を抱き寄せてつぶやいた。
「そう、ですわね。神々のご意志に比べれば、わたくしたちの心などは無いに等しいのでしょう。しかし、わたくしが今ここにいること、あなたをお助けすると決めたこと、それにはさだめでないものが含まれていると信じています。たとえわずかでも、わたくしの心があったと……」
「きっとそうでしょう。あなたはお強い。さだめにふりまわされてばかりではないはずだ」
「そんなことはありません。本当はとても弱いのです。いつでも恐くてしかたがないの」
「何が恐いと、申される?」帯壬は屈みこむようにして速津姫の顔をのぞきこんだ。
 姫は少しためらっていたが、体を預けてささやいた。「お仕えしていた神を裏切ったこと――そしてその報復が、あなたに及ぶのではないかということです」
「そのくらいの危険は、わたしが身に引き受ける必要があるでしょう。他で楽をしているわたしなのだから」
 そう言った帯壬の口調にはいくらか明るさが戻っていた。速津姫は帯壬の首に腕をまわし、噛みしめるように言った。
「いいさだめですわ。わたくしにはあそこから飛びだす勇気などなかった。さだめがなければ、わたくしがあなたについていくことは叶わなかったでしょう――あなたをどんなに愛しく思っていたとしても」

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