闇き乙女

第一章

まほろば

「そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに。うぶな子ね」
 中角はうれしそうに桃生をからかった。「若いというのはいいことだわ。わたしも恋をするけれど、そういうときめきって、もう感じないものね」
 若さが幼稚かどうかということであれば、こんなことで喜べる中角のほうが自分よりずっと若者だと思いながら、桃生は突き進んでいった。桃生が何を言っても、いまの中角は勝手に解釈して楽しむのだから、話さないのが賢明だった。
 人々のいる場所から離れると、野原はどんどん暗くて寂しいものになっていった。陰気に思えたあの野原がどれだけ賑やかだったか、桃生たちは今になって思い知った。日当たりが悪いのか、生える草は小さく、いじけたように地面に貼りついていた。若菜はまったく見あたらない――もっとも、見かけたとしても摘むつもりはなかったが。
「どこまで行く気なのよ」中角が言い、桃生はやっと足を止めた。気がついてみれば、桃生の息は切れていた。自分のことなのに気づけないのはおかしいようだったが、それほどあわてていたのだという証だろうか。
「重ねて言うけれど」桃生は息を整えてから中角のほうをふり向き、強い口調で言った。「明吉良の君のことは、わたし、本当に何とも思っていないから。妙な噂がたつようなことはやめて」
 中角はくちびるの端をつり上げて微笑んだ。きりりとした顔の中角がこういう笑みをすると、いかにも艶っぽく見えた。「わかったわ」
 本当にわかったのかどうか、かなりあやしいところだったが、桃生には追求することができなかった。とつぜん風が吹きすさび、さえぎる木立のない野原で、桃生たちはまともに冷たい風にさらされた。
「戻りましょう。本当に雪でも降りそうだわ。そろそろ若菜摘みはお終いになって、暖かい宮に帰れるころでしょう」中角は寒そうに着物の袷をひきよせた。
「賛成――でも、わたしたち、どこから来たのだっけ?」
 桃生はあたりを見回してたずねた。何にもない野原をただ横切ってきたはずなのに、若菜を摘む人々の姿は見えず、方向の見当もつかない。
「桃生、おまえが連れてきたのでしょう」
「ごめんなさい。さっきまではちゃんとわかっているつもりだったんだけど――」
 そのとき、中角がはっとしてさえぎった。「黙って」
 聞こえてくるのは吹きつける風の音ばかりだった。桃生は寒さに震えたが、中角は身じろぎもしなかった。気を張りつめ、じっと耳をそばだてている。
「姉様、どうしたの?」
「なんということなの――神の森が近くにある」中角の顔色が変わっていた。ひどく青ざめており、それは寒さのためばかりではなかった。
「神の森って何?」
 わからない不安を感じながら桃生はたずねたが、中角にはかまう余裕がなかった。「逃げなくては」
「え? 逃げる――?」
 桃生は驚いて聞き返した。何がそんなにまずいのだろう。それに、一体何から逃げるというのか。
 中角は桃生を引き寄せると、その耳元で低くささやいた。
「走るわよ。わたしの後ろからついてきて。絶対に遅れたりしないように。それと、なるべく息をしないで。話すのも、もちろん禁止」
「走るって……ここがどこだかわかったの? 皆のところにちゃんと戻れるの?」
「ここから離れることが先決なの。あとはどうにでもなる」
 いつにない姉の迫力に、桃生は圧倒されてうなずいた。中角が走りだし、長い髪と裳裾がひるがえる。普段のようすからは想像できないすばやさだった。ひきずるような長さの裳は、どう考えても走るには不向きだった。桃生は裾を踏んづけて転びそうになりながらも、あやかしのように前を行く中角を追いかけた。
 次第に息が苦しくなっていく。しかし、中角は走りつづけ、桃生のこともふり返らなかった――平気だと思っているのだ。運動など滅多にしない宮廷の生活で、姉がなぜこんなに速く駆けられるのか、桃生には不思議でたまらなかった。何かがおかしい。
 桃生は木の根に足をとられてよろめいた。いつの間にか、あたりは鬱蒼と茂る森になっていた。転びはしなかったものの、桃生には走りだすことができなかった。木の幹によりかかり、あがった息を鎮める。頭はがんがんと鳴り響き、胸には穴が空いたようだった。
 桃生が休憩していたのは、そんなに長い時間ではないはずだった。けれども、顔をあげて見回したとき、中角の姿はどこにも見あたらなかった。
(どうしよう……はぐれてしまった)
 桃生は泣き出したくなった。彼女が逃げてきた野原は陰気なだけだったが、この森には無意識に鳥肌が立つような恐ろしさがあった。木々の梢が空を分厚く覆いかくし、空の切れ端さえ見えなかった。たとえ曇り空であっても、この森とは違う場所があるということがわかれば、ずいぶんと慰められただろうに。
 直立する木々は静かな威圧感を放ち、桃生は押しつぶされそうだった。逃げだしたかったが、どこに行けばいいのかわからなかった。間違って進んで、より恐ろしい場所に足を踏みこんでしまわないだろうか――
 おびえながらも、桃生は少しずつ歩いていった。ここに居続けるのは危険だった。さだかな理由はなかったが、桃生はそう強く感じていて、中角がどうしてあれほど取り乱したのかわかるような気がした。ここは危険だ。
 しかし、進めば進むほど孤独感はつのり、じわじわとした恐怖が桃生を苛んだ。体中から汗が噴きだし、手足は小刻みに震え、立っていられないほどだった。(誰でもいい、誰でもいいから現れて――)この際、追いはぎや人殺しであっても、現れてくれるなら何でもよかった。一人でここに居ることにくらべれば、どうということはない――今の桃生には心の底からそう思えた。
 くじけずに歩き続け、桃生がやっと暗い森の中に見いだしたのは、おすいを被った小さな姿だった。顔が隠されているものの、衣からわずかにのぞく手を見れば、たいそうな年寄りであることがわかった。
 桃生はほっとなって駆けよろうとしたが、そのとき、急に小さな影がこちらを向いた。
「そなた、天つ神の血を継いでおるじゃろう」
 低くしわがれた声だった。この森の空気によくなじみ、溶けこんでいくようだ。けれども恐ろしくはなく、むしろ親しみを感じられた。桃生はさらに安堵して打ち明けた。
「言われるとおり、わたしは皇の者ですわ。ここから近い野原で若菜摘みをしていたのですけれど、皆からはぐれて、迷ってしまったんですの。どうか助けていただけないでしょうか」
「若菜摘み。確かにあそこでは良いものが育つ。この森から風に流れる気を吸いこんでおるからのう。じゃが、いい加減にして余所に行けばよいものを」
「どうしてですか?」落ち着いて余裕の出てきた桃生は、これは変なお婆さんだと思いながらたずねた。
「そなたのような迷い人が出るからじゃよ。そして、たいていは助からぬ。そなたはまことに運がよい」老婆が桃生のそばにやってきた。「ついておいで。送ってゆこう」
 しかし、桃生は行けなかった。老婆の「助からない」という一言に囚われていた。「姉が――わたしのほかに姉も迷っているのです。最初は一緒だったのですが、わたしがついていけなくて……今頃、気づいて探しているかもしれない」
「そなたの姉というのは誰じゃ?」
「中角姫です。母は氷室姫――」
「そのようなことは聞いておらぬ。どういう見目かと聞いておる」
 桃生は動転する気持ちを抑え、中角の特徴を答えた。「わたしより四つ年上です。背も高くて――頭の良さそうな顔をしています。皇に似ています」
「その者は、森に入りこんでおらぬ。近くにはおったが。そなたはどうやら、姉とはぐれた後に森に迷いこんだようじゃな」
 中角が無事と聞いて、桃生は胸をなで下ろした。「よかった――」
「二人でともにおって、自分だけ迷うとは、運があるのかないのかわからぬ子じゃ」老婆は言ったが、桃生の顔をよく見ると訂正した。「――いや、そなたのほうが血が濃いゆえに呼ばれたのじゃな」
「血が濃い?」
「そなたは天つ神じゃよ。この御代の天つ神は、皇と日継ぎの御子のみかと思うておったが、違ったようじゃ。この森の神が放っておかぬはずじゃ」
 老婆はそれきり黙ってしまった。ついてくるように桃生を目でうながし、足音をたてずに歩きだした。桃生がなんとなく悪いことをしたような気分になって歩いていると、老婆が急にふり返った。
「手をお貸し。確かめたいことがある」
 桃生がおとなしく従って手を出すと、老婆は桃生の中指の腹に爪をくいこませた。あっという暇もなく、桃生の指先は切れ、血の粒がふくらんだ。
 流れた桃生の血を見つめ、老婆がぽつりとつぶやいた。「くらの色じゃ」
「赤いですよ」桃生は思わず言ってから、そういう問題でないことを思いだして抗議した。「いきなり何をするんですか」
「言ったじゃろう。確かめたのじゃ。もしやと思ったら、そなたはやはりくらき者じゃった」
「くら――何ですって?」
 桃生は聞き返したが、老婆は懐かしむように言うばかりだった。「無事に成長した闇き者に会うのは本当に久しいことじゃ。そなたの力がわずかゆえ、誰にも見あらわせなかったと見える。よくぞ生き延びたものじゃ」
「放してください。放して」桃生は脅威を感じて抗った。この老婆も危険だ――逃げなくては。
 老婆を乱暴にふりほどき、桃生は走りだそうとしたが、意識はそこで途切れた。視界がぼんやりとして何も見えなくなる――

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