桃生は、若菜摘みの、あの凍るような寒さのために熱を出して寝込んだが、二日も療養するとすぐに良くなった。他に変わったことはなかった。あの森を思い出してうなされることもなかったし、妙な老婆のこともほとんど忘れていた。いや、完全に忘れ去っていた。
麗らかな春はあっという間に過ぎて、雨がしとしとと降り続く梅雨がやってきた。それも終わると、今度は、日差しが日を増すごとに強く照りつけるようになる。昼顔が淡い色合いの花をつけ、蝉が鳴きはじめた。熱気が体中にまとわりつき、夜でもその蒸し暑さは変わらない。
その日は闇夜だった。宮中では
宴の会場へ向かうため、桃生が回廊を渡っているときだった。侍女の持っていた手燭の炎がふっと揺らいで消えてしまった。あたりはたちまち暗くなる。
「まあ、たいへん。代わりを持って参ります」
「火打ち石は? 持っていないの?」
「申し訳ございません。すぐに戻りますから、姫様はここでお待ちくださいませ」
暗い場所に一人で残されるのは嫌だったが、桃生がそう訴える暇もなく、侍女は姿を消していた。裳をすそびく音だけがさらさらと聞こえる。
(少しの明かりもない中を、よく歩けること)桃生は感心して思った。聞こえてくる裳のこする音は一律で途切れがなく、あの侍女は転ぶどころか躊躇もしないで、目のきかない暗闇の中を突き進んでいるらしい。
右手のほうから楽の音が聞こえ、宴は始まってしまったもようだった。侍女が戻ってくる気配はなく、桃生は風に流れてくる喧噪に耳を傾けた。今日は帯壬も笛を吹くと言っていたから、彼の奏でる音が混じっているはずだった。曲は語り物のようで、時折歌声が聞こえた。
(あ、これかな。兄様の笛の音は)聞き覚えのある音色を聞きつけて、桃生が思ったときだった。何者かが、桃生を捕らえて押さえこんだ。まるで闇が実体をもって現れたようだった。
桃生が無我夢中で暴れると、相手の腕はかすかにゆるみ、桃生はその隙に突き飛ばして逃げだした。しかし、それで終わりではない。相手はまだ追ってくる――知り合いが悪ふざけをしただけではないかという希望はこれで吹っ飛んだ。相手は何も言わずに追ってくる。かすかな足音と息づかいが背後から迫ってきた。
「誰か! 誰か助けて!」桃生は叫んだが、駆けつけてくれる者はいなかった。楽器の優雅な調べがいやにはっきりと聞こえた。
←戻
│
↑この頁のトップへ
│
進→
[登場人物&用語集]
| 広告 | 花 | 無料レンタルサーバー ブログ blog | |