「何をしている」そのとき、駆けつけてきたのは青星だった。
青星が大声で言った瞬間、桃生の腹ににぶい痛みが走った。じんわりと、さっきよりも強い冷感が広がる。
帯壬の顔を確かめるよりも早く、桃生の体はもぎとられ、視界が目まぐるしく変化をはじめた。青星がかたわらに寄り添い、桃生を支えている。あたりは暗く、洞穴のようだったが、時折、鮮やかな色がきらめいた。それらはちらちらと揺らめいたかと思うと、木の葉のようにあっという間に流されていく。
しかし、次の瞬間に、それらはすべて遠ざかった。浮遊感が消えて、足が地面につく。天井にさえぎられているはずなのに、月と星が見え、二人の上でしきりに輝いていた。大木が立ち並び、明らかにさっきまでとは違う場所だった。
「あいつには追ってこれない。ここまで来たら安全よ」青星は支えていた手を放そうとした。けれども、桃生は立っていられず、青星にもたれかかった。
「ちょっと──」言いさした青星は、おのれの手が濡れているのに気づいた。暗闇だったが、青星は明吉良と同じように国つ神の血をひいていた。目に飛びこんできたなまなましい血の赤に、青星はしばらく言葉を失った。
「あいつに射されたの」
桃生はそうだともちがうとも言わなかった。
「──横になって。止血をするから」
桃生は痛みなど、まるで感じていないように静かだった。うつろなまなざしをして、どこかを見つめている。
出血のわりに、深い傷ではなかった。青星は衣の袖を引き裂いて、包帯代わりに傷にあてた。桃生の寝間着はとうに血を吸って赤くなっていたが、新しく当てた布までもが赤く染まることはなかった。青星は、桃生をあまり動かさないほうがいいと判断して、このまま夜明けを待つことにした。
さまざまなものが住みついている森には、静寂の夜であっても、多くの生き物が起きて活動していた。彼らの息づかいは幾重にも重なり、独特の気配をつくりだしている。青星──国つ者には馴染みのある気配だ。青星が緊張を解いたとき、まわりの空気がわずかに揺れた。
影だった。どこからともなく現れたそれは、見事なまでに森の空気と調和していた。
「どうするのです? 夜が明けたら」影がたずねた。夜に溶けこむ声音で、かすかな風のようにも感じられる。
はじめ、青星は黙っていた。けれども、影が一向に去ろうとするようすがないので、仕方なしにそっけなく答えた。「親父様たちと合流する」
「無理でしょう。彼らだって襲われて、命からがらに逃げているのです。彼らがどこへ行ったか、あなたに見当がつくのですか?」
「心配してもらう必要はないわ。緊急の場合にそなえて、落ち合う場所は決めてある」
「さすがは印色様。準備がよろしいのね」
影は誉めたが、青星の反応は冷たかった。「場所は言わないわよ。何と聞かれても」
「聞きだそうとは思っていません。でも、そこは近いのかしら? 傷ついた闇き姫を連れていけるほどに?」
青星はじっと桃生を見つめた。「治る傷よ。大丈夫だわ」
「そうですわね。しかし、膿んでくるでしょう」影は、魂が抜けたように横たわっている桃生をちらりと見て言った。桃生の視線は宙をさまよい、影の存在に気づいているのかどうかさえあやしい。
「あんたに予知の力はないはずよ」
「それでも、わかるものはわかるのです」
影の口調は強くなった。「闇き姫には、今すぐ手当が必要です。避難場所へたどり着いてからでは手遅れですよ」
「それは、何──桃生の手当をしようと申し出ているの? あんたが?」青星は影の意図に気づき、思わず顔をゆがめた。
「それが一番賢明でしょう」
「冗談じゃない」青星は影に侮蔑のまなざしを向けた。「どうせ、桃生を天つ神に引き渡すつもりで言っているのだろう。あんたがそこまで堕ちていたとは思わなかったわ」
「わたしは本当にこの姫を助けたいと思っているの。他意はありません」
「だったら、どうして裏切った。日継ぎの御子についていった」青星の怒りは静かだったが、投げかける言葉はするどかった。「血のさだめのもとにある身なんでしょう。あんたは天つ神の望みをかなえなくてはならない。それを違えられるはずがない──もし、違えることができるのだったら、どうして去るときに踏みとどまってくれなかった。今になって出来ると言うなんておかしい」
影はなにかを言おうとしたが、思いなおして息を吸いこんだ。影のはかなさが消え、実体のように存在が強くなる。
「わたくしが信じられないと言うのね。それなら、青星、あなたがわたくしを見張っていなさい。絶えず、闇き姫のそばにいて、お守り」
青星は影の言葉に意外そうな顔をしたが、それから小さな声でぼそりとつぶやいた。「あたしでは、あんたにかなわない」
すると、影は円かな笑みを浮かべて、優しく言った。
「あなたは場所から場所へと移れる技を持っているのだもの。危うくなったら、今回のように、それをお使いなさいな」
青星は影の真意をさぐるようにじっと見つめた。影は微笑んで、そのまなざしを受け止めた。
桃生の流した血は乾きだしていた。濡れていた青星の手も、今ではべっとりとねばりついている。空気にさらされた血はなまなましさを失い、くすんだ色に変化していたが、それはそれで嫌悪をさそうのだった。青星は血の固まったこぶしをにぎりしめた。
桃生は依然として、見えないまぼろしを追っている。
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