闇き乙女

第二章

天つ神

 印色は馬の手綱をゆるめ、駆ける速度を落とした。「ここまで来れば、あとは平気だ。もう、まほろばの兵は追ってこないだろう」
「そうか?」大鷹が同じように馬の速度を落としつつ、いぶかしげに言った。「わしには、そうとは思えん。あの館から、まだ一里と離れていないではないか。おぬしにしては、ちと楽観すぎやしないか」
 彼らは馬を並べ、今いる小高い丘から見下ろした。そこからだと、印色の館はまるで小さな細工物のように見える。館は火を放たれて、赤々と燃えさかっていた。灰色の煙が不穏なかたちになって、天を覆いつくそうと昇っていく。
「せっかくの月が台なしだな」風に髪をあおられながら、印色がつぶやいた。
「悠長なことを言っておる」大鷹はあきれ返った。「月の美しい晩など、いくらでもあるだろうが。ほら、次はどうするのだ、参謀殿よ。しっかりしてくれ」
「美和へ向かう。青星も闇き者をつれて、そこに来るはずだ」
 桃生が青星と共にいることに、印色はいやに確信を持っているようすだった。大鷹は気づいて顔をしかめたが、あえて言及はしなかった。
「──美和か。では、急ごう」大鷹はふたたび手綱をとった。
「いや、今日はここで夜を明かそう。馬を休ませたほうがいい」
 大鷹は不満げに言った。「そんなにのんびりしていたら、まほろばの追っ手に捕まるぞ」
「追っ手は来ない。帯壬はわたしをあなどっているからな。兵を差し向けられたのはこれで三度目くらいだが、いつも住処をだめにされるだけで終わりだ。皇にも、わたしの命をどうこうしようというご意志はないものと見える」
「おぬし、そんなにも襲われていたのか」
「国つ神と親しんでいるからな。逃げる手際も、なかなか慣れたものだったろう。わたしの館に住まう者には、皆、その訓練をさせてあるのだ」
 仕え人たちがあわてふためきながらも、抑えるべきところは抑えて逃げていたのを思い出し、大鷹はなるほどと感嘆した。じつに印色らしい。
「しかし、今回はいつもと違うだろう。姫御子を拐かしたのだ。犯人は引っ捕らえて、確か、八つ裂きにするのではなかったか」
 印色は答えず、明吉良をふり向いた。大鷹の馬に相乗りしていただけなのに、明吉良はすっかり疲れきって、肩で息をしている。印色の視線を追った大鷹もそれに気づいた。
「この程度でへばったのか。骨のないやつだ」
「仕方なかろう。明吉良は、まほろばの宮の奥深くにしまいこまれて育ったのだ。体があまり鍛えられていない」
「それなら、わしが稽古をつけてやろう。明吉良、おぬしも強くなりたいだろう」
 明吉良はうなずいたが、大鷹に何を言われたのかよくわかっていないようだった。今の状況も把握できていないふうで、しきりにあたりを見回している。
「ここはどこ?」
「地名はわからんが、ともかく丘だ。ほれ、あそこに火事が見えるだろう。燃えている館が、さっきまでわしらのいた場所だ。まほろばの兵に取り巻かれている。わかるだろう?」大鷹はすっかり明吉良の思考に慣れたらしく、あれこれと先回りして教えてやった。明吉良はときどき聞き返したりして、うなずいている。そのようすから、明吉良が少しどころか、まるで状況を飲みこめていなかったことを知り、印色はあきれ返ったが、明吉良が剣の守部であったのを思い出し、ふと遠くを見る目つきになった。
 印色は自分の馬を連れて、明吉良と大鷹のそばから離れた。適当なところを見つくろって横になる。会話はもう途切れ途切れにしか聞こえてこなかったが、そのとき、流れる風の関係だろうか、明吉良のたずねる声が印色の耳に届いた。
「──桃生はどこにいるのだろうか──」

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