闇き乙女

第二章

天つ神

「明吉良はどうしているかしら」
 やわらかく煮込んだ粥を口に運びながら、桃生がつぶやいた。彼女はこの数日間でだいぶ回復していた。傷はまだ痛むものの、起きあがって食事ができるし、少しだけなら歩くこともできた。はじめはふさぎこんでいた桃生だったが、しばらく経つと、以前のように明るい笑顔を見せた。暗い事件があったことなど、まるで感じさせない。
 袖をまくりあげ、かいがいしく桃生の世話を焼いていた速津姫──そう、速津姫──は、驚いたように顔をあげた。しかし、すぐに優しい笑みを浮かべて言った。
「きっと、ご無事でしょう。印色様や大鷹様、頼りになるかたがたがおられるのですもの」
「義姉様は、明吉良のことをご存じでいらっしゃるの?」青星にたずねたつもりだった桃生は、少しびっくりして聞いた。
「ええ。昔のわたくしは、彼と同じように神に仕えた身でしたから。似たようなことに携わっている人のことは、たいてい聞き知っております」そう答えた速津姫は、どことなく寂しげだった。
「ねえ、明吉良の中に宿っているという──大蛇の神って何なのですか?」
「あら、印色様に教えていただきませんでしたの」
「はい。なんだか強いらしいということは聞いたのですけれども……」
 まるで人の腕っぷしを言っているような桃生の口ぶりに、速津姫は思わず微笑んだ。「それでは、青星、あなたが教えてさしあげて」
「あたしだって、よく知らないの。変わった神で、その御霊を宿すべき者が必要なことは知っているけど」
 速津姫は、まさかという顔をした。「あの言い伝えを知らないのですか? あんなに物知りでいらっしゃる印色様に育てられたあなたなのに」
「言い伝え?」
 青星はふしぎそうに聞き返した。速津姫はその無心な顔を見て、考えをあらためた。「──いえ、賢いおかただからこそ、お話にならなかったのかもしれませんわね。あれはどう考えても、わたくしたち国つ神にとって、有害な言い伝えですもの」
 少女たちは興味津々な顔つきで速津姫を見つめた。その視線に気づいた速津姫は、なぜだかおかしそうに吹きだした。「かしこまって聞くような、堅苦しいお話ではありませんのよ」
「もったいぶらないで、早く話してくださいな」桃生はいらいらして促した。
 速津姫は微笑みのまま目を伏せて、静かな声で話しはじめた。
「とてもとても昔──天つ神の血をひく御子が、豊葦原の神々と戦われたことがありました。豊葦原の神は強くてあらあらしく、天つ御子を苦しめました。巫女であった彼の妻は、勝てる望みが薄いことを知っていました。毎日毎日、傷を負って戻ってくる夫の姿に、彼女もまた苦しみ、苦しみぬいたすえに──一つの決意をするのです。ある日暮れ、天つ神がいつものように血を流しながら帰ってくると、そこには慣れ親しんだ妻の姿はなく、代わりに一匹の大蛇が彼を出迎えました。大蛇は彼に力を与え、そうして天つ御子は戦いに勝利したのです。すべてが終わったのち、大蛇の神は去っていきました。見送る御子の姿を、何度もふり返りふり返りしながら」速津姫はそこで一呼吸置いた。「とつぜん消えた妻は、結局、戻ることはありませんでした。数年が経ち、やがて御子は気づきました──あの大蛇こそ、自分の妻であったと。彼は大蛇を探しだして連れ帰り、彼女のために社を建てました。みずからが大蛇を鎮める者となってそこに住まい、彼は死の迎えが来るまで、大蛇になった妻と共に暮らしたといいます」
 桃生は首をひねっていたが、そのうち考えあぐねて聞いた。「どのあたりが、有害なのです? ふつうのお話ではありませんか」
「その妻、国つ神だったんでしょう」青星の視線が冷ややかになった。「同族を裏切り、天つ神に従った──」
「そう、わたくしのように」速津姫が先回りして言った。その毅然とした態度に、桃生は速津姫が巫女だったときの姿を垣間見たような気がした。
 しかし、一瞬の後には、速津姫の表情はくるりと一変して、いたずらっぽい子どものようになった。「この言い伝え、たいへん人気があるのです。とりわけ、あなたたちぐらいの女の子に。どうしてだか、おわかりになるかしら」
「ええ、なんとなく」大蛇になった妻の気持ちがわかるような気がして、桃生はうなずいた。
「明吉良が、その大蛇を宿しているのですね」
 桃生が噛みしめるように言うと、速津姫はうなずいた。
「剣の守部になるのは、たいてい乙女なのですけれども。彼は──」
「例外ね。異常なほどに」
 青星が速津姫の言葉をさえぎって言った。速津姫は笑顔をつくろって、青星を見た。この聡い子は、今度は何に気がついたというのだろう。
 場をまぎらわすように、速津姫が言った。「桃生様は、ずいぶん明吉良のことをお気になさるのですね」
 桃生はにっこりと微笑んだ。彼女らしくない笑い方だった。青星と速津姫がけげんそうに見守る中で、桃生はすがすがしく宣言した。
「ええ。だって、わたしは明吉良が好きなのですもの」

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