「長老」やがて落ち着きを取り戻し、印色が冷静にたずねた。「このようなところへ、ようこそおいでくださいました。わたしに御用かと存じますが、何の用事でございましょう」
この長老がふらりと何もないところから現れるのはいつものことだった──いつものことなのだが、それを驚かずにいられる者は無きに等しかった。かなり心臓に悪い。「もう少し──違った登場は願えないものなのですかな、長老殿」大鷹が苦笑いしつつ言ったが、だれも相手にしなかった。
「闇き者のことじゃ」老婆はしわがれた声で言った。「あの娘を──印色の君、そなたにまかせたい」
「光栄にございます。けれど、それでは──」
「わかっておる。そなたは余所者であり、わしらと同じ血は流れていない。じゃが、わしはもう決断したのじゃ。だれにも文句は言わせぬ。引き受けてくれるじゃろう、そなたなら」
座敷の空気が張りつめた。印色は目を伏せて黙りこみ、老婆は彼の答えを何も言わずに待っている。
「待ってくだされ」沈黙をやぶったのは大鷹の野太い声だった。「それでは、沙流王はどうなりまする。お役御免ということか、長老殿よ」
「仕方あるまい。沙流王は信頼のおける者であり、頼りになる戦士じゃが、こういうことにはとんと向いておらぬ」
「どのようなところが長老殿のお気に障ったのでありましょうか」大鷹は思わず老婆との距離を狭めた。「闇き者と剣の守部の逃走の件でありましたら、それは、わしに非が──」
「沙流王は、向いていなかったのじゃ。それだけじゃ」老婆は優しく言った。「わしらは誰もこの役目に向いておらぬ。国つ神には天つ神のことがわからぬ。天つ神のことがわかり、対峙できるのは天つ神の血をひく者のみ。のう、印色の君や」
大鷹は苦しげに顔をゆがめた。「それならば、なぜ、始めから印色に命じられなかったのです。このことを耳にしたら、沙流殿がどんなに落胆されることか──」
「沙流王にお知らせする必要はない」ふいに印色がきっぱりと言った。
彼は老婆をまっすぐ見据えてから、床に額をこすりつけるようにして頭を下げた。「お役目、ありがたく承らせていただきます。わが力を尽くし、必ずや、国つ神のためになるように致しましょう」
「わしは些細なことにとらわれて、ことの判断を誤ってしまった。どうか、その遅れを取り戻しておくれ」
「御意」
「ことを進めるうえで、そなたが望むことは何かあるかえ」
「恐れながら、ございます」印色は強い口調で条件を次々にあげていった。「まず、わたしにこの件をまかされたこと、誰にもお話くださいますな。それから、闇き者と剣の守部はいまだ行方知れず、ということにしておいていただきたい──」
「待て待て。それでは、わしはどうなるのだ。手ぶらで戻れというのか」大鷹が困ったようすで言った。
「そなたには、ここに居てもらう。情報を外に漏らすわけにはいかない」
「失礼な。わしは言いふらしたりせんぞ」
「……言わずとも、そなたは顔に出るのだ」印色は苦りきった表情になって言った。
「悲しきは、正直者ということかの」老婆は皺だらけの顔に笑みらしきものを浮かべた。
それから、老婆はいくらか遠い目をして言った。「娘に秘められておる素質は、あの輝かしき日継ぎの御子に比べて微々たるものじゃ。かの娘は、まだ、そこらに転がる無数の石と変わらぬ。しかし、今、わしらに与えられておるのはその娘だけじゃ──無理に思えても、磨きに磨きぬけ。よいか、印色の君」
印色はふたたび平伏した。彼が顔を上げる前に、老婆は霞のようにかき消えて、まるで何事もなかったかのように席は空っぽになっていた。
大鷹は、印色の杯になみなみと酒を注いだ。「沙流殿のことは残念だが、おぬしが評価されておるならうれしいよ。大役だ。わしもできることがあったら協力するぞ。遠慮なく言え」心から歓迎している表情で、大鷹は印色に杯を渡した。このさっぱりした性格が大鷹の美点であり、彼が多くの者から慕われている理由だった。
「それなら、頼もう」
「おお。なんだ、なんだ」
「わたしが、これからすることに」印色は揺れる酒の水面だけを見つめていた。「一切、口出ししてくれるなよ」
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