青星が言ったとおり、桃生にはわずかな休憩の時間さえ与えられなかった。沙流王の屋敷で、あれほど暇をもてあましていたのが嘘のようだ。
何をさせられていたかと言うと、主に、立ち居振る舞いや礼儀作法などのおさらいだった。子どもの頃に習得したはずの、初歩的なことがらを端から端までやり直しさせられたのだ──教師をつとめたのは、初老だが背筋のしゃんとした侍女だった。手厳しいうえに情けというものを知らなくて、桃生がへとへとになっていても気遣いさえせず、「立ちなさい」と平気な顔で命じる。おまけに底意地も悪くて、桃生が何かどじを踏むと、すかさず嫌味を言うのだった。
桃生の監視役である青星は、いつも必ず同席していたが、彼女のほうは特にすることもなかった。本当に退屈そうにして、桃生が疲れていくさまを見物している。青星がそのとき寝そべっているならまだよいほうで、目も当てられないような姿勢をしていることもあった。青星のほうがよっぽど小言をもらうべきなのだが、口惜しいことに、老女は彼女に対しては何も言わない。
腹立たしいことだらけの毎日だったが、桃生は一度として怒りを爆発させたりはしなかった。内心ははらわたが煮えくりかえる思いであり、それをどれだけ顔に出さずに済んでいるのかはわからなかったが。
気の短い桃生にそんな芸当ができたのは、やはり大切なことがあるからだった。沙流王の屋敷ではまほろばへ帰ることを励みにして頑張っていたが、今の桃生の原動力となっているのは気がかりな明吉良のことだった。日が経てば経つほど、明吉良に会って、早く謝りたいという気持ちは強くなっていく。
従順にしていれば、やがて警戒はゆるんでくるはずだと、桃生は踏んでいた。そうしたら頃合いをみて、明吉良との面会を願い出るのだ。今度は恐れないで向き合えるはずだと、桃生は思っていた。
桃生がこの館に連れてこられて七日目が過ぎようというときだった。夜の帳は降りて、月が白々と輝き、まさに時ならぬ時刻だった。桃生は寝ているところを青星にたたき起こされ、支度をするように言われた。
「何なの?」桃生は寝ぼけ眼でたずねた。
青星の他に、二,三人の侍女がいた。彼女たちは眠りからまだ覚めきっていない桃生をとり囲み、すばやく着替えさせた。桃生の具合などおかまいなしの、おざなりな着付けだった。眠たいのと服の着心地が悪いのとで、桃生は思いっきり顔をしかめた。
「アラキだっけ? 桃生の連れの名は」青星がたずねた。
「明吉良よ」
桃生は訂正したが、青星はどちらでもかまわないようだった。「その明吉良とかに、会ってもいいって」
思ってもみなかった知らせに、桃生は仰天した。「どうしていきなり。それに、今、会うの? こんな時間なのに──」
「そうよ。つべこべ言ってないで、ついてきて」
回廊に出ると、月の光を受けて高欄や板張りの床が青光っていた。桃生は夢のつづきを見ているような心地で、さっさと歩いていく青星の後を追いかけた。やがてたどり着いた宮の一角には、あのとき桃生たちを助けた大男が立っていた。明吉良同様、彼とも会うのはそれ以来だったが、桃生はその名を侍女から聞いて知っていた。彼こそ大鷹であり、明吉良の話にたびたび登場していた人物だった。
大鷹はどこか落ち着かないようすだったが、桃生の姿を認めると、たちまち気持ちの良い笑顔を浮かべた。
「元気にしておったか? 少しやつれたように見えるが」
「いいえ、そんなことは。先だってはありがとうございました」
桃生が礼を言うと、大鷹は太い眉に皺をよせた。「やはり、おぬしは痩せたようだ。毎日、いびられておるのだろう。印色のやつは加減というものを知らんからな。まったくかわいそうに」
桃生はまだ、この館の主人に出会ったことがなかった。しかし、仕え人たちがひどく気を遣っているようすから、その人柄は容易に想像できていた。融通の利かない、厳格な頑固者に違いない。
「あの、明吉良はどこに?」桃生は相手が言い出すのを待ちきれなくて聞いた。
「ああ。この部屋の中におる」大鷹は答え、笑ってつけ加えた。「あやつは、おぬしに会いたい会いたいとばかり申してな、かなりうるさかった。邪魔はせんから、楽しんできてくれ」
今夜のすべては大鷹のはからいなのだと知り、桃生は微笑んだ。意識しなくても、それはとびきりの笑顔になった。
桃生が部屋へ消えると、大鷹はちらと青星をふり返った。青星はそれに気づいても気にするふうはなく、件の部屋を正視している。
「実は」大鷹は気まずげに打ち明けた。「印色の命令というのはうそなのだ。わしが望んで、なにもかも仕組んだのだ。おぬしには片棒を担がせたことになる。すまなかった」
「そんなところじゃないかと思っていました」青星は部屋から目を離さないで言った。大鷹が自白する前と変わらない、まるで何も聞いていなかったかのような無関心さだった。
「それならば、なぜ、わしの言うとおりにしたのだ?」大鷹はふしぎそうにたずねた。
それに対する青星の答えは、いつものようにすらすらとは出てこなかった。「それは……桃生がアキラに会いたいと言っていたから」
大鷹は鍛えられた太い腕を組み合わせ、「ふむ」と言ったきり黙りこんだ。
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