闇き乙女

第二章

天つ神

「桃生」明吉良の呼ぶ声に、暗闇で困っていた桃生はほっとした。部屋には例によって明かりがなく、桃生にはほとんど何も見えていなかった。声のしたほうへ行こうとした桃生はとたんにけつまずいた。足元に何かが転がっていたようだ。よろめいて倒れかけると明吉良に抱きとめられて、彼がたいへん近くにいたのだということを発見した。
「ひさしぶりね」明吉良の腕から起きあがりながら、桃生は言った。──なんとなく、どきまぎしている。
「熱はさがった? 体のほうはもう大丈夫?」
 桃生はたずねたが、返ってくる答えはなかった。
(大鷹殿の言われたことはうそだったのかしら。わたしを喜ばせるつもりで言われたのだろうか……)明吉良はほんとうは自分になんて会いたくないのではないかと桃生は考えて、ひどく切ないような気持ちになった。
 明吉良と早く仲直りをしたかったが、謝っても許してくれないかもしれないと、そればかりが桃生の気にかかった。しばらく後込みをしたのち、桃生はようやく重い口を動かすことに成功した。
「山賊に襲われたときの……ことなのだけれど」
 はじめに桃生の名を呼んだきり、明吉良はひとことも発していない。このときも、何も言わなかった。うなずくことさえしなかったので、桃生はくじけてしまいそうだった。「……わたし、ひどいことをしたわ。助けてくれた明吉良にお礼も言わなかった。あなたが恐かったの。鬼のように見えて──今、それをとても後悔している。謝りたいと思うの。ねえ、わたし、謝ってもいいかしら……」
 明吉良は、やはり何も言わなかった。桃生は目に涙の粒がふくらんでくるのを感じた。
「泣かないで。ごめん──」
 桃生はかすかな希望に明吉良を見た。しかし、明吉良は弱々しく、とんでもないことを告白した。「覚えていないんだ、そのときのこと。いくら考えても思い出せない。本当に悪いのだけど、桃生が何を言っているのか少しもわからないんだ」
「うそでしょう」桃生は思わず言っていた。「たった七日前のことよ。わたしたち、一緒に市場を歩いたではないの。店のおばさんに恋人同士だと誤解されて──」
「ごめん。覚えていない」
「関所までの道のりを歩いたわ。二つ目の村を通り過ぎようとしたら、あなた、村人にからまれたのよ。顔がどうとか言われて」
「ごめん。覚えていない」
「赤子のことは? わたしが目を離した隙に、明吉良がだれかから押しつけられてきたのよ。親を探すの、たいへんだったんだから」
「ごめん。覚えていない──」
 桃生はまくし立てるのをやめ、弱りきっている明吉良をしげしげと見つめた。特にどこが変わったようすもない。桃生は、あのとき倒れた明吉良の体が、異常に熱を帯びていたことを思い出した。(……熱で、頭がおかしくなったのかしら)
「僕は何も覚えていないけれど、桃生のことは好きだし、いつでもそばにいたいよ」
 明吉良が言い、それで一件のけりはついたのだった。けれども、桃生はいまいち晴れ晴れとしなかった。

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