明吉良の部屋から出てくると、桃生はそのまま、ぼんやりとたたずんでいた。青星や大鷹の姿は見あたらなかった。
少なからず動揺していた桃生は、出てくる場所を間違えてしまったのだった。その出口はちょうど、桃生が入ってきたところとは反対方向だった。正しいほうの出入り口では、今も、青星と大鷹が桃生のことを待っている。
そろそろ夜の開ける頃で、向こうの空が白みはじめていた。まだ居ればいいと明吉良は言ったが、桃生はそれを断って早々に引き上げてきた。とても明吉良と向かい合っていられる気分ではなかった。
(別に……何が悪いというわけでもないのだけれど)明吉良があのできごとを忘れていたことは、むしろ好都合なのかもしれない。だが、桃生にはそう思えなかった。あれほど気にしていた自分がまるで馬鹿のようだし、明吉良が桃生のことをどうでもいいと思っている証のようではないか。
寝不足のためか、ふらふらする足どりで、桃生は回廊を渡っていった。このときになって、ようやく出口を間違えたのに気づいたが、明吉良の部屋にふたたび戻る気にはなれなかった。部屋に帰りつくくらいできると思って、桃生は引き返さなかった。気分がどことなく沈んでおり、他のことはなにも感じられないように心が空っぽだった。歩いていた桃生の前に、やがて長身の人影があらわれたが、彼女はうつろなまなざしを向けただけだった。
その男は高欄の近くに立ち、明るむ夜空を見上げていた。月は夜の輝きをなくし、薄っぺらい紙のように空に貼りついていた。桃生をふり返らずに、男は低い声で言った。
「この館の主人はわたしだ。闇き者の育成もまかされている。そなたが夜歩きするのを許した覚えはないが」
(ああ、この人が印色なのだ。青星の父君か──)思ったより若かったが、桃生はそれ以上の関心を持てなかった。理不尽なあつかいを受けていることに対する怒りさえ湧いてはこなかった。
桃生が黙って通り過ぎようとすると、印色はわずかにふり向いた。「明吉良は覚えていなかっただろう」
はっとして、桃生は足をとめた。「どうして──知っているのです」
「明吉良は、その身に剣の神を宿している」印色のことばは、ただ正確にものごとを説明するためだけのものだった。「剣の神は、大蛇の神とも呼ばれる。特異な神で、御霊代を持っておられないのだ。そのため、国つ神から一人を選出し、その者の体を神のよりしろとしてきた。大蛇の神の力は強く、よりしろとなった者の心は脅かされる。うつろいやすい記憶などがもっとも影響を受けやすく、よって明吉良は、ふつうの者より忘却が激しい」
「それは、どういう──」
桃生は目を丸くして叫んだが、印色はそれを静かにさえぎった。「宮廷の教育だけを受けたそなたには、国つ神のことがよく理解できていないはずだ。ちょうど良い機会だ。ついてきなさい」
それは命令だった。印色はどこまでも冷たくおごそかで、ものを命じることに慣れていた。桃生はくちびるを噛みしめ、彼の後に従った。
印色は庭へと降りていった。広く掘られた池には蓮の花がたくさん浮かび、水面を覆い尽くすように漂っている。植木は気ままに枝を伸ばし、蔓草も好き放題にそこかしこへ絡みついている。あまり手入れはされていないようだ。主の性格からして、きっちりと世話をさせていそうなのに、ふしぎなことだった。自然のままに放置された庭は、薄闇の中に見るとどこか不気味だった。
「そなたが以前、まほろばの宮で目にしていた庭とは違うだろう。天つ神は、造られて整えられたものを好む傾向にある。逆に、国つ神は
印色はまるで教師のように言った。「闇き者」として、彼らの仲間として、そう教えられているのだとわかり、桃生は寒気と同時に怒りを感じた。
「宮廷にも、国つ神の末裔と言われる人々がいました。あれもみな、あなたたちと同じで、謀反人なのですか」
「沙流王のように企みをもって宮中に入りこんでいる者は、確かにいる。しかし、それは少数だ。国つ神の眷属の多くは、皇にまことの心を捧げている」
皮肉を軽く受けながされて、桃生はやや損じた気分になった。「謀反人と言われて、憤らないのですか」
「なぜ、憤ることがある。現在、天の下をしろしめしているのは天つ神。畜生であっても知っていることよ。その君を屠ろうというのだから、われわれはまぎれもない反逆者だ。違うのか」
「……沙流王は怒りましたよ。謀反人と罵ったら」
「そなたはわたしを怒らせたかったのか」印色はまばたいた。「沙流王は名誉を重んじられるかただ。名をおとしめられれば、お怒りになるだろう。それが的を射たそしりであってもな」
印色の口ぶりは辛辣だった。どうやら仲が悪いらしい──と思いながら、桃生は強く言った。
「わたしが聞きたいのは、沙流王よりも明吉良のことです」
「沙流王のことを、そなたに聞かせようなどとは思っていない」印色はまず言ってから、きびしく告げた。「明吉良のことなら、すでに説明した。それより、今のそなたが耳にしておかなければならないのは、国つ神に関する諸々のことがらだ」
「そんなことは聞きたくありません。知りたくもない」
「聞くのだ」
押しかぶせるように言われて、桃生は黙った。眉のかたちがくやしさにゆがむ。
「国つ神は、豊葦原へやってきた新しい神──天つ神──を歓迎した。この言い伝えは偽りではない。国つ神は、新しい神の言うことに賛同し、力も貸した。これも偽りではない。だが、いつのときでも、天つ神を手助けするのを厭う国つ神がいたのだ。天つ神があらわれてから、国つ神は分裂した。天つ神を愛する神と、天つ神を嫌う神とに」
桃生はひとことも口を挟まなかった。たずねて、自分が話を聞いていることを事実にしたくなかったのだ。それは最後の抵抗だった。
「天つ神に好意的な国つ神たちは、天つ神と共におのれの土地から去った。彼らは、はじめは天つ神の後見の立場であったものが、いつの頃からか協力者になり、ついには従属へと落ちていった。天つ神は彼らの力を望みのままに使役して、豊葦原を変えていった。残った国つ神はそのことを嘆き悲しみ、天つ血をもつ者をこの豊葦原から一掃することを誓ったのだ。その国つ神の子孫が明吉良であり、青星であり、大鷹であり、ここでそなたを取り巻く者たちだ」
印色はそこで言葉を切った。桃生はすばやく身をひるがえし、立ち去ろうとした。印色は引き止めずに、その後ろ姿に声をかけた。
「今日は休みにしよう。稽古はなしだ。体調を崩されても困るからな」
桃生はくちびるを固く結んだまま、小走りに去っていった。すると、どこに隠れていたものか、いつからそこへ居たものか、青星があらわれて印色の横に並んだ。
「うそを教えていいのですか? 闇き姫に」青星の態度にはめずらしく非難がこもっていた。
「語らなかったことがあるだけだ。偽ってはいない」
「一番肝心なことを、親父様は隠したんですよ。偽ったのと同じことじゃないの?」
「そなたも口が達者になったものだ」
印色は嫌味ではなく言うと、娘に背を向けて言った。
「戻りなさい。今日はそなたも休みだ。好きなようにして過ごすがよい」
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