闇き乙女

第三章

変革

 美しくきらびやかな宮のなかで、そこだけはしんと静まりかえっていた。ことが起きる前は、あれほど賑やかでうるさかったのにと思うと、誰もが消えた姫のことを思わずにはいられなかった。側仕えの女官や世話人たちはみな適当なところに配置し直され、寄りつく者もいない。そんな死んでしまった部屋の前を、涼しい顔で通り過ぎることができるのは、母の氷室姫ぐらいのものだった。
 その日も、氷室姫は、自室に戻るためにわざわざ遠回りするのは愚かしいと言って、変わらぬ道を選んだ。近頃では、姫君の亡霊が出るという噂がささやかれているようで、氷室姫についてくる女官たちはびくびくと身を寄せ合っている。小娘はそれが普通としても、古株ともなれば、肝が据わっていてその程度では動じないものだが、今回ばかりは様子が違っていた。
 しかし、今まで、何かが起こったということはなかった。今日もそのまま行き過ぎるかと思ったが、廊を半分まで過ぎたところで、氷室姫がふいに立ち止まった。
「どうなされました」ここから一刻も早く去りたい女官たちは、急かすような口調でたずねた。
「音が――聞こえないか。部屋のほうから」
 氷室姫以外の全員がいっせいに青ざめた。それに応じるように、今度は大きな音がした。女官たちは主を置いて、老いも若きも一目散に逃げ出していった。氷室姫はそれを軽蔑したまなざしで見送り、音の聞こえたほうへと向きを変えた。
 部屋に踏みこむと、中にはうっすらと埃が積もっていた。氷室姫は不快そうに眉をひそめたが、夏からこちら放置されたままなのだから当然といえた。何も動かされた形跡はなく、おとなしく定位置に収まっている。けれども、さらに奥へ進んでいくと、部屋じゅう手当たり次第ぶちまけたように衣服が散乱していた。鮮やかな色合いの衣装に彩られて、灰色の部屋はつかの間、以前の華やぎを取り戻したように見えた。
 衣と衣のあいだで動くものを認め、氷室姫は冷ややかにたずねた。「女装でもするつもりなの。おまえの酔狂にはつき合いきれないわ」
「冗談がお好きですね、母上は」布に埋もれていた帯壬がむっくりと身を起こした。「お一人ですか? 危険ですよ。宮殿の警備が万全なものではないと、このあいだ証明されたばかりだというのに」
「供はおりました。おまえのたてた物音に驚いて、みな逃げてしまったのよ」
 原因は自分のくせに、帯壬はさも知ったふうにうなずいた。「そんな頼りないお供では、はじめからいないのと同じことですよ。どうやら、いちばん勇敢なのは母上のようだ」
「どうせ、おまえだろうと思いましたよ」氷室姫はすげなく返した。
「そうですか――でも、ちらりともお考えになりませんでしたか。風の噂に言われるように、あの子の霊があらわれたのかもしれない、とは」
 氷室姫は帯壬を見つめた。彼女の顔には過ごしてきた年月が刻まれ、そこには若やぎも奔放さももはや存在しなかった。しかし、目の前の帯壬はそれを充分に持ち、しかも男だった。それでいてなお、彼は、氷室姫によく似通っていた。いったい、何の因果かと思うほどだ。
「馬鹿なことを。生きているものが亡霊になりはしないでしょう」
「やはり、下手な偽りごときでは、母上は謀れないか」帯壬はおどけて言った。「ええ、おっしゃるとおり、桃生は健在ですよ。ぴんぴんしています」
「それにしては、ずいぶん機嫌がよさそうだこと。なぜなの? 桃生は闇き血をもっていたのでしょう――闇き者はもれなく葬るのが、おまえたちの決まりではなかったの」
 氷室姫の低めの声には、まぎれもない嘲りが込められていた。帯壬は笑むのをやめて、悲しげに眉をひそめた。「母上がお怒りになるのなら、それは仕方のないことです。わたしがここにいるために多くの血が流され、母上もその害を受けた一人だ。今さら、許しを請うつもりはありません。けれども、わたしは見出し――これまでの指針をあらためなければならなくなりました。それだけは、どうか、わかっていただきたい」
「なにを見出したというのです」
「闇き者は、天つ神であるということです」帯壬は噛みしめるように言った。「認識しなおしたと言ったほうが正しいかもしれません。闇き者は、何よりもまず先に、天つ神なのです。天つ神であるという前提が成り立たなければ、どんな者も闇き者にはなれない。そして、天つ神とは、天つ神のためだけに生きるものと定められている」
 帯壬は立ち上がり、氷室姫のかたわらに寄った。帯壬の顔からは普段のふざけているようすが消え、真摯な表情が浮かんでいた。
「考えてもみてください。これまでにも多くの闇き者があらわれ、国つ神を率いては皇のさまたげとなってきました。けれども、彼らは一度として、成功したためしがない。勝利もときにはもたらされるが、それはたまゆらの夢にしか過ぎず、すぐに皇に奪われるものだったではありませんか」
 氷室姫は、ほんのわずかだが、口ごもった。「何が言いたい?」
「闇き者は、かならずしも、われわれに害をなすものと決まってはいないのです。むしろ、その逆ではないかとわたしは思う。闇き者を求めることで、いつか自由になれるという夢を見ることで、国つ神たちは絶望を知らない。決して彼らをあきらめさせないこと――それこそが闇き者の役目ではないかと思うのです」
 氷室姫は平静さをとりもどしていた。帯壬のまなざしを氷の態度で見返し、形のよい顎をそらした。「わたくしには、おまえが願望を語っているようにしか聞こえない。帯壬、おまえは桃生のことをたいそうかわいがっていました。今回のことでの悲しみは、余程のものだったでしょう――おまえはまるで感じてないふうに振る舞っていたけれども。日継ぎのつとめは普段にも増してそこつなものだし、宮にはここ何日も顔を出していなかったようではありませんか」
 帯壬が何も言い返さないのを見て、氷室姫はきびすを返した。彼女はとどめを刺すように言った。「悲しみに耐えきれず、おまえはそんな考えを夢見るようになったのでしょう。皆、おまえを神だの何だのと言うけれど――そんなことはあり得ない。所詮はただの人なのだから」
「天つ神には大望があります。それ以外の望みを抱くことはできない」去っていく氷室姫の背中に投げつけるようにして、そのとき、帯壬が口を開いた。「天つ神が支払う犠牲のひとつです。母上もご存じのはずだ。だから」帯壬は氷室姫を肩をつかみ、無理やり自分のほうへ向かせた。
「だから、あなたはあのとき泣いてくださった。同族を裏切り、わたしとともにまほろばへ来てくださった。そうでしょう。違いますか」
 氷室姫は小さく叫んだ。それは人の名だったが、少なくとも帯壬を呼んだのではなかった。
「おまえ、おまえはだれなの。どうして、そんなことを知っているの――なぜなの」
 相手の瞳に浮かぶ恐怖に、帯壬はしまったと思ったが、もう遅かった。氷室姫は帯壬を押しのけると、部屋から飛び出していった。
「あーあ」ひとり残された帯壬は自嘲するようにため息をついた。「近頃はうまくいっていたのに、ね。妙なところでとじを踏んでしまったものだ。これで、また警戒されてしまうな」
 しかし、起こってしまったことは仕方がないとあきらめて、帯壬は作業にもどった。衣装を納めたつづらをひっぱりだし、ふたを開ける。慣れない者のめちゃくちゃな手つきでひっかきまわし、ときには中身をそのままひっくり返して、彼は目的のものを探した。氷室姫が去って少しも経たないうちに、部屋は数倍もひどいありさまになってしまった。
 ようやく見つけ出した領布ひれを、帯壬は懐かしむ目で見つめた。長い日のうちに、かつての薄紅の色はあせて白くなり、絹の生地はすっかり痛んでいた。それでも遙かなる昔を思い起こせるような気がして、たまらなく愛しかった。
「夢の向こうに見ているよ、いつも」ここにはいないだれかに語るように、帯壬はつぶやいた。気づいたのはほんの偶然――夢から目覚める瞬間、うつつまぼろしがないまぜになるあのとき、かいま見えたおぼろげな情景が頭から離れず――それだけを求めて、いったい何度、見たくもない夢の中に身を沈めたことか。「元気そうだったな。あいかわらず、おてんばをやっているのだね。見ていておかしくなったよ――闇き者なんて、遠くかけ離れた存在だと思っていたのに、おまえはちっとも変わらないから。正直に言うと、拍子抜けした」気づくことができてよかったと、帯壬は何度も思った。帯壬は、闇き者が脅威になるかどうかより、桃生が桃生ではなくなることこそを恐れたのだが、少しもそんなことにはならなかった。春に生まれた少女はのびやかによく笑う。泣いたり怒ったり憎んだりということだってするのだが、しかし、どの感情を経験してしまっても、あの少女は凍てつくような冷やかさを身に宿しはしなかった。
「おまえは、すこし、能天気すぎるのかもしれないな」帯壬は優しく領布をなでた。「でも、これからもずっと、そういうおまえであってくれ。それだけでいい」
 氷室姫の顔が帯壬の意識をよぎる。それと同時に、さきほど目にしたまぼろしを思い出した。
「桃生は、あんな鬼には感化されないようにね」帯壬は諭すようにしかつめらしく言い、それからふっと微笑んだ。「母上にも、お知らせすれば良かったかな。桃生とあの人が仲良くやっていると。そうしたら、母上は――どんな顔をされただろうね」
 母の思惑は、ほんとうに狂ってばかりいる。彼女はいったい何を望み、何を夢見て、当時はまだ日継ぎの御子だった父の手をとったのだろうか。そして、まほろばへやって来たのか。
 帯壬は母の望みを知っていた。それは他愛もない願いだった。氷室姫が皇に望んだのと同じように、帯壬自身もまた、妻たちから似たようなことを望まれている。だからこそ、どんなにしても叶わない願いだと知っていた。帯壬はかすかな苦々しさとともに思いをはせた――はたして、自分の願いのほうは、一つだって叶うことがあるのだろうか、と。

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