闇き乙女

第三章

変革

 桃生は、その日一日を、ひさしぶりにのんびりと過ごした。今晩の祭りは、まわりの村人がすべて集まっても平気なように、屋敷とは少し離れたところにある大きな広場で行われるそうだ。いくつもの荷車が行き交いして、酒の樽や料理を運んでいく。人々の足取りは浮き立っており、桃生にはそれが意外だった。桃生が知っている祭りは厳粛そのもの。呼吸のかすかな音さえ禁じられており、それこそ息つぎしないくらいの覚悟をして儀式にのぞむのだ。当然ながら、楽しめる余地はかけらもなかった。
(この時期にやるのだから、豊穣を願う祭りだとばかり思っていたのだけど……違うのかしら)
 しかし、青星に聞いてみると、その祭りだと肯定された。
「その割には、みんな、お気楽そうね。あなたたちの祭りは、どれもこんなふうに賑やかしいものなの?」
「厳粛なものも、中にはあるわ。でも、ふつう、祭りは騒ぐものよ」
「……そんなことをしていて、神がお怒りになったりしないの?」
「神々もあたしたちも、同じ豊葦原に存在するものなのよ。持っている力が違うというだけで、楽しみや喜びは変わらない。民が踊っていると、その楽しそうなようすに感化されて、神も輪に混じって踊るという言い伝えがあるわ。運良く、そういうことがあった年は、嘘みたいに実りがいいの。だから、祭りはうんと楽しくやらなくちゃ」
「ふうん」桃生はわかったような、わからないような気持ちで相づちを打った。
「民はいつでも働いていて大変なのよ。たまの祭りは、彼らが羽をのばすことのできる機会でもあるから」
「宴みたいなものなのかしら。あなたたちにとって、祭りというのは」桃生は言ってみたものの、やはり納得しきれなかった。もし、宴の客のなかに神が混じっていたら、ひどく肩が凝ってしまいそうだ。楽しむどころではないだろう。
 桃生がなんとなく混乱して頭を悩ませていると、背後からしがみついてきた者がいた。桃生は驚かずにふり向いた。予想したとおりにそれは明吉良だったが――彼は桃生と目が合うと、なぜか面食らった顔をした。そして、桃生の身体からぱっと手を離し、ごめんなさいと謝った。
(ああ、すっかり忘れていた)桃生は例の扮装をしたままだった。印色に褒められてからは羞恥心が薄らいで、それほど気にしていなかった。おまけに、気づいていないのか、ほかの誰もこれに対して何とも言わなかったのだ。
 明吉良は所在なげにあたりを見回したが、それでも見知った桃生は見つけられない。明吉良はかなり嫌そうな顔をしながらも聞いた。
「青星、桃生はどこ」
「これ」青星は明吉良をちらりと見やり、横にいる桃生を指さした。
「『これ』とは、何よ。これとは」桃生はむっとして言った。すると、いぶかしげだった明吉良のまなざしが驚きに変わった。
「桃生――?」
「ええ、まあ、そうなの。ちょっといろいろあって」見つめられ、ふたたび桃生の中に居たたまれない気持ちが戻ってくる。
 だが、その居心地の悪さは長く続かなかった。青星が明吉良をうるさそうに追い払おうとして、ぴりぴりとした空気がまたもや始まった。人知れず胸をなで下ろしながら、桃生はなだめ役にまわった。けれども、生来からして一言多く出てしまう質なので、火に油をそそぐような結果と相成った。そんなことをしているうちに日は傾いて、空があかね色に染まりだす。
 一人二人と、広場に向かって出ていく者がある。一方で、まだ作業にいそがしく、屋敷の中を走り回っている者も大勢いた。印色や大鷹もそれの一人で、何をしているのか知らないが、まだ出発する兆しはない。桃生が自分たちはどうするべきかと考えていると、せききった侍女があらわれた。
「青星様、明吉良様。こんなところにいらっしゃって。お二人とも、支度がお済みではないでしょう。早くしてくださいませ。ああもう、時間になってしまう」
「いいわよ、このままで」
 身なりに無頓着な青星は言ったが、とんでもないと一蹴された。「ここ一帯の民が集まるのです。まだ青星様を知らない者も、今日の祭りで青星様を知ることになるのです。仮にも姫とされる人物が野娘のような格好をしていたら、皆、なんと思うでしょう。よろこびの祭りだとしても、高貴なかたには果たすべきお役目がございます。きちんとしていただかなくては」
 これを傍らで聞いていた桃生はふと気づいた。(わたしはこの屋敷から、ほとんど外に出ていない。村の人たちは、おそらくわたしを知らないわ。では、今日、この顔で出ていったら、『桃生』はこういう顔をしているのだと覚えられるのね。化粧を落として歩いたなら、もしかして誰だか気づかれないかしら)
 青星と明吉良は、ものすごい勢いで追い立てられていった。しばらくして戻ってきたときには、明吉良はともかく、青星はとても雰囲気が変わっていた。動きやすさを重視する青星は、めったに長い裳を履かない。速津姫のもとでは押し切られて着ていたが、それ以来は反動のようにいやがっていた。裳を履き、装飾品を身につけて、青星はひどく女らしかった。
 これ以上、とどまっていると、もっと良くない目に遭うとでも考えたのか、青星は出発をうながした。屋敷を出たときには夕明かりが残っていたものの、すぐに真っ暗になった。国つ子孫の二人は平気そうだったが、桃生のほうはそうもいかなかった。やっとのことで広場にたどり着き、そこに燃え上がる炎を見たときには、心底ほっとした。
 広場の中央には丸太が組んで積まれており、天に炎の手をのばすように揺らめいている。すでに多くの者が集まり、火を囲んでいた。赤々と照らす光は同時に影をつくりだし、集まる者のすべてに黒い分身を与えている。並べられた料理や酒には、誰も手をつけたようすがない。皆さざめいて談笑しているが、どことなく落ち着きがなく、何かを待っているように見えた。
「国つ神の祭りは、どういうふうにして始まるの」
「あたしたちには長老がいるの。そのおかたが全部をつかさどっているわ。始まりを告げるのも、終わりを告げるのも、長老の役目。長老があらわれるまで、この祭りは始まらないわ――ほら、あたしたちの席はあそこ」
「いちおう、別に席がしつらえてあるのね。印色殿はどの席? わたし、あの人の隣だけはいやですからね」
 そのとき、明吉良がふいに桃生の手をとった。桃生が反応する間もなく駆け出し、だいぶ離れたところで、青星をふり返った。
「少し見回ってきたいんだ。始まる前には戻ってくる」
「待って。あたしも――」
「桃生、行こう」
 明吉良は聞こえないふりをした。青星が追ってこられないように、たくみに人混みのなかにまぎれこむ。桃生は感心しながらもあきれた。「妙な知恵をつけたのね。それよりも、弓矢か剣の腕をあげてよ」
「頑張るよ。でも、かまえとかいろいろあって、覚えてられないんだ」
「ばか。それで? どこに行くつもりなの」
 明吉良は答えず、うれしそうに微笑んだ。その上機嫌なようすに、桃生もつられて笑顔になった。
「国つ神の祭りって、ほんとうに楽しいの?」
「わからない。おぬしは祭りを見たことがあるはずだって大鷹殿は言うのだけど、僕のほうでは覚えていないんだ」
 明吉良はのほほんとしていた。もしかすると、明吉良は、自分に宿るやっかいなもの――大蛇の神――のことさえ、覚えていないのかもしれない。そのほうがいいのかもしれないと桃生は考えて、自分も知らぬふうに言った。
「明吉良は三つぐらいのときにまほろばへ来たのでしょう。無理もないわ。ずいぶん昔のことだもの」
「そうだね。だけど、楽しいものだという気がするんだ。空気も風も人も、いつもより優しい」明吉良の目は遙か遠くに向けられているようで、どことなく神秘めいて見えた。言ってしまえば男なのに巫女らしくて、剣の守部というのは本来はこういうものかと桃生に思わせた。
 けれども、桃生自身は、どちらかというと早く帰りたかった。人々が楽しげなのは伝わってくるし、好ましいとは思うのものの、なんとなく気分が落ち着かないのだった。
(暗いからかな……)近頃の桃生は、日が落ちるとすぐに寝床に入る生活をしていた。稽古でくたびれきっている身体は、よほどのことがないかぎり朝まで昏々と眠り続ける。暗い中を歩くことは久しい間なく、だから過敏になっているのかもしれない。意地をはって言わなかったが、ここまで来る道のりはけっこう怖かった。
「その長老とかいう人、まだやって来ないのかしら。ずいぶん遅刻じゃない」人でごった返すなかを縫うように歩きながら桃生が愚痴っぽく言った。あれからいろいろ歩き回り、いい加減に疲れてきているのだが、明吉良のほうは元気そうにはしゃいでいる。技はからっきしだが、大鷹のしごきで、体力だけはついたもようだ。
「あそこの人たちは何だろう。楽人?」
 桃生は頭をもたげた。明吉良がしめす一角には、まわりより高めにつくった席があり、太鼓やつづみなどの楽器が並べてある。いくらかの楽人たちはおのれの楽器を手にとり、最後の調整に余念がない。
「ああ、笛を持っている人がいる。桃生も笛を吹くんだよね」
「わたし? 笛なんてやらないわ。たしなむ楽器は琴だけよ。うまくないけれど」
「あれ――そうだったっけ」明吉良が記憶違いをするとはめずらしかった。混乱してわからなくなるほど、明吉良の記憶は多くないだろう。
 試しに音を出してみる楽人がいた。飾り気のない簡素な楽器は音色も素朴で、しかし、それらが重なりあうと深みのある旋律になった。桃生は思わず足を止めて聞き入った。二つ三つ重ねただけでこれだけすばらしいのだから、全部が合わさったらどれだけのものになるだろうと、桃生は惚れ惚れして考えた。話に夢中だった人々も、流れてくる音の響きに耳を傾けはじめたようで、前よりしゃべり声が減っている。
 明吉良も同じく静かになった。けれども、彼は音楽に聞き惚れているのではなかった。どこか焦点の合わない目をして、ただ一点を見つめていた。明吉良はしばらくぼうっとしたあと、やっぱり憑かれたようなしぐさで桃生の袖をひいた。
「来たよ」
 何事かとふり返った桃生は、明吉良の目線の先を追い――そして、ぎくりと身を強ばらせた。闇に埋もれた木立が風に揺れ、幾千もの葉がざわめく。そのあいだからすり抜けるようにして、白い布きれがあらわれでた。月光に照らし出されるそれは、青白く浮かんで揺らめいていた。白い固まりは見る見るうちに大きくふくらんでいき、今では大きく風にはためく。つづいて、皺だらけの手が黄色い染みのように出現した。
 桃生は叫びそうになったが、それはこの不思議な現象に驚かされたためばかりではなかった。釣り糸を引くようにするすると、閉じこめられていたものが呼び起こされていく。その暗い鱗片に桃生はおののいたが、引く手はゆるむことがなかった。(知っている――知っているわ。わたしはこの人を知っている)姉の中角と、初春の野に迷った記憶。あのとき責め立てられた恐怖が思い出され、桃生は総毛立った。老婆はひどくちっぽけなのに、この場の何より大きく、脅威をもって感じられた。桃生はとうとう耐えきれなくなって、明吉良にしがみついた。心地よい楽の調べは恐怖を増大するものに取って代わり、拐かされたときもこんなふうだったと、桃生は思い返してさらに怖くなった。

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