闇き乙女

第三章

変革

 どこかでうすうす予感していたとおりに、待たれていた長老はあの老婆だった。何が起きているのかわからないうちに時間は過ぎた。踊りがあって、楽があって、酒や食べ物などがあった。けれども、桃生はおびえつづけて、どれも目に入らなかった。騒ぐことや取り乱すことはしなかったが、明吉良の衣をつかんだ手だけは離さず、しっかりとにぎっていた。単なる偶然か青星の画策か、桃生と明吉良の席は見事に離れ離れだったが……桃生は強固に拒んで、並んで座れるようにしてもらった。
 明吉良は、老婆があらわれてからというもの、すっかり上の空になってしまった。普段の彼なら喜ぶようなことでもまるで関心をしめさず、青星に何か言われても反応さえしない。こんな状態の明吉良は、ますます頼りなさそうだったが、桃生はなぜだかそばを離れたくなかった。明吉良といれば、安全なような気がした。
 楽の音が変化したとき、桃生は不安げに隣へ目をやった。明吉良はあいかわらずほうけた顔をしており、守ってもらえるような気がするのは、どう考えても桃生の幻覚だった。まだしも青星のほうが――何をしだすかわからないとはいえ――頼りになるのではないかと思ったが、踏ん切りがつかなかった。
 これから何が起こるのか、なるべく考えないようにして、桃生は気の休まらない時をやり過ごそうとした。祭りがはじまってどれほど経った頃か、印色がついに桃生の肩をたたき、神経の研ぎ澄まされていた桃生はびくりと身を震わせた。
「そなたは今宵、祭りとは他にすることがある。ついてきなさい」
 だれもが祭りの熱で浮かされているというのに、印色の落ちついたものごしはそのままだった。桃生は明吉良の衣をぎゅっとにぎりしめて立ち上がった。
「剣の守部は来なくともよい」
「いいえ。明吉良もいっしょに行きます」なぜ、明吉良をここまで頼みの綱とするのか、桃生にとってもふしぎだった。
「そうか」印色はとくに反対せず、森のほうへと歩きだした。とうの明吉良は、無関心にぼんやりとしている。もしかして立ったまま寝ているのではないかと、桃生はふと疑問を感じた。
「今宵は、そなたのみそぎだ。われらがあがめる神と対面して、その御霊に触れ、受け入れる。これの完了をもって、そなたは正式に国つ神の一員となる」
 印色の威厳あふれる声も、この暗闇には呑み込まれていくようだった。あたりがざわめいて、ときどき闇から何かが飛び出してくる。桃生はもはや見栄もなく、明吉良に身を寄せた恰好で歩いていた。それほどまでに怖かったのだ。
「どうして、こんなに……暗いのでしょうか」
「夜だからだ。決まっておろう」
「そんなことはわかっています。神と対面する儀式を、どうして夜なんかに」光の都と呼ばれることもあるまほろばでは、考えられもしないことだった。神事をおこなうのは、光がまばゆく照らす時刻のみ。夜にもよおされる行事もあるにはあるが、それは宴などの娯楽のたぐいに限ってのことだ。
「光だけが称賛されるべきものではない。夜には夜の営みがあり、だからこそ生まれる恵みがある。光も闇も、国つ民はどちらも同じように言祝ことほぐよ。それこそが自然な姿だ――しかし、そなたは怖いのか」
 いかにそれが真実で、相手に見透かされていても、肯定だけはしたくないと思った。桃生がいつまでも答えないのを知り、印色はふっと表情をやわらげた。冷たさは微塵もなく、それどころか柔らかみのある笑顔だった。「だろうな。自然の神々は天つ神に優しくない。隙さえあれば、喰らおうとしているようだ。神々は気まぐれなものだが、天つ神に対する態度だけは一徹していて変わらないな」
 印色は先を歩いており、桃生の位置からその表情は見えなかった。とうぜん印色がほほえんだのも桃生にはわからなかったが、声音が変化したのには気がついた。目が利かないところでは、別の部分が代わりによく働くものだ。
(この声の調子、だれかに似ている……覚えがあるような気がするわ)
「だが、大丈夫だ。われらとて、大事な闇き者を失うつもりは毛頭ない。そなたが奪われないよう、しっかりと手を打っている。まじないもほどこした。安心せよ」
「まじない?」
「その厚塗りの化粧だよ。天つ血を引くものは顔を隠すと、その素性をみあらわされにくくなるのだ。そうなる理由はさだかではないが」
 以前に聞いた話を思い出して、桃生はたずねた。「それは、印色殿が発見したことなのですか?」
「――わたしが天つところの者だと知っているのか」
「はい。大鷹殿から……」
「あのおしゃべりめ」印色はにがりきって言った。
「そうだ。わたしが発見したことだ。こちらがどう下手に出ても、自然の神々は荒ぶるばかり。いろいろと苦心した結果がこれだ」
 ということは、今の桃生と同じように印色もまた、にせものの顔をかぶっているのだろうか。しかし、確かめる機会は得られなかった。
 印色が歩みをとめた。かの長老は闇の中に浮かぶようにして待っていた。白いおすいは暗闇に少しもまぎれず、そんなふうに見えたのだ。儀式らしい整えはなにもないようだったが、鳥目の桃生に見えないだけで、実はあるのかもしれない。
「祭りの日だというのに、このようなことをお頼みして申し訳ありません」白い影に向かって、印色が頭を下げた。
 口を開いた長老は、ごくふつうの老婆と少しも変わらなかった。折れ曲がった腰、皺だらけの皮膚。世の中を知った落ち着きが奇妙な優しさをもたらし、あたたかさとなってにじみ出る。桃生は思わず警戒を解きそうになったが、今はもう、これだけが老婆の姿ではないことを知っていた。いつかのように無邪気ではいられない。
「闇き者のことは気にかけていたのじゃが、あれきり見に行けないで悪かった。どれ、姫や。顔を見せてごらん」けれども、桃生は、明吉良の背に隠れてそっぽを向いた。(もとはといえば、この人が……)
 印色が謝った。「礼儀のほうまでは、手が回っていないのです。お許しを」
「気にせぬよ。闇き者と剣の守部は仲良うやっているようじゃな」
 なんだか嫌な言い方だと、桃生は思った。明吉良も不快に感じたのか、体をぴくりと動かした。桃生はそれで元気づけられたような気がして、明吉良の後ろから進み出た。終わらせなくては帰れないのだ。それなら、いつまでもおびえて躊躇しているより、さっさと終わらせてしまったほうがずっといい。
「禊ぎというのは何をするのですか」
「国つ神は自然のことわりにしたがって生きておる。わしらの仲間となるためにはまず、自然の神に認められることが必要じゃ。魂の洗礼を受けよ。みずからを解放し、すべてをゆだねるのじゃ。さすれば、そなたは国つ御霊のあるところを知り、真なるものを手に入れるであろう」
 長老に身ぶりでしめされ、桃生が前へ踏み出そうとしたときだった。印色が実践的な口調ですばやくささやいた。
「何も考えないことだ。神の心はそなたの中に入ってくる。痛みがあるが、それを耐えろ。決して拒むなよ」
「印色殿──」
「すべてを捨て去ることが大切だ。間違っても、天つ血に救いを求めるな。正体を見破られてしまうぞ。わかったなら、行け」そう言って送り出した印色の表情がいたわるもののように見えたのは、桃生の気のせいなのだろうか。桃生は強くうなずいて、より濃い闇の中へと踏みこんだ。
 一方、明吉良といえば、何をするでもなく立ちつくしていたが、やがてゆっくりと老婆と印色とをふり返った。明吉良のすっきりとした輪郭が淡い光をあたりに放つ。

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