闇き乙女

第三章

変革

 強い気持ちで踏み出した桃生だったが、不気味な風に当てられると、たちまちに気力が萎えてくるのを感じた。恐れは、すきま風のように心の中へ入りこむ。冷えた汗が頬をつたい、胸元を濡らした。押し寄せる不安の波にさらわれないように、桃生はぐっと奥歯を食いしばった。封印した名を呼びそうになるのを必死に抑える。(わたしの居場所はここにしかない。逃げ出すことはできない。戻ることはできない……)
 何かがじわじわと迫ってきているのが気配でわかる。桃生は直立してひたすら待った。痛みが来るのを。このときが終わり、そうしてすべてが過ぎ去ってくれるのを。
 引き裂かれる痛みだった。肌を切り、肉に穴を開け、内部に入りこんでくる。桃生は苦痛のあえぎを喉で押し殺した。しかし、痛みは一瞬では済まされず、いつまでものろのろと続く。桃生は歯をきしむほどに噛み──爪を立てた肌からは血がにじんだ。
 永遠とも思える責め苦に襲われて、どれほど経った頃だろうか、すべてがふっと遠のいた。体から魂が抜けていくような感覚がして、痛みさえやわらいでいく。この場所はもはや、何も存在しない暗黒ではなく、光がこぼれるように差し込む明るい楽園だった。清らかな水が豊かにあふれている。
 しばらくして、うがたれた道から侵入してくるものがあった。けれども、桃生は心地よさにひたったまま、ぼんやりとしていた。異物はあたたかに広がって浸透する。生きもののように自由に動きまわっては、桃生のひとつひとつを解きほぐしていった。それは奪いとられていくことであり、桃生だって気づいたが、抵抗する気持ちにはならなかった。
(これが国つ神の信じるもの……水、風、光、土、炎、もろもろの恵み。どれ一つ欠けても、わたしたちは生きていけない。国つ神はそれをちゃんとわかっていて敬意をはらう。だけど、天つ神は──まほろばでは、そうではなかった。感謝はするけれど、自然のそのままを重んじるより、服従させることのほうが大事だった。でも、それは間違っているのだ。今なら、あの荒れはてた庭がどれだけ尊いものかわかるわ)
 このままけていくのがいいかもしれない。ここへ来ることは桃生が望んだのではなかったし、むしろ嫌だったのだが、今となってはどうでもいいことだ。自分は見出し、それを堅く信じられるのだから。
 桃生はそう思って、目を閉じた。光を浴びたことのない胎児にのみ許される、安らかで満たされる気持ち。それとよく似たものを、今の桃生は感じることができた。
 ところが、神々の触手が最後のところへ伸びたとき──桃生の中に、はじけ飛ぶような衝撃が走った。心のどこかが、だめだ、と叫ぶ。それはなによりも大事なものだ。絶対に失ってはならない、かけがえのないものだ。譲ることはできない。渡すことはできない。渡せない──
 桃生は一瞬にして起きあがり、無我夢中で守ろうとした。順調に征服できるつもりだった異物は、急に態度をひるがえされて驚いた。触れる手をひっこめるが、それは一時のことであり、驚きはすぐにほとばしるような怒りに変わる。水は煮えたぎり、おだやかだった空気は灰色にうずまきはじめた。漆黒の闇よりも、もっとおどろおどろしい──桃生は完全に見あらわされていた。守ってくれるものは何もない。風も、空気も、存在するものはすべて敵になった。
 ついさっきまでの優しさが嘘のようだ。桃生は刺され、突かれて、あっという間に傷だらけになった。とくに、体に入りこんだ異物の動きはすさまじく、桃生をばらばらに砕いてしまおうと躍起になっている。
 だが、幾千の激痛よりも、彼らの敵意そのものが桃生にはつらくて悲しかった。以前の桃生は、彼らのことをどこかで拒絶していた。だから、嫌われるのも仕方がないと思っていた。けれども、桃生はいま、彼らの魂に触れて──彼らの在りようを、命を、愛しいと感じてしまった。
(わたしはあなたたちを否定したのではないの。大切なものがあったから守っただけ。これだけはどうしても譲れないの。他のならば、全部あげる。もう、拒んだりしないわ。あげるから)
 しかし、厳しい彼らは耳など貸さず、容赦のない攻撃を加え続ける。激痛の嵐に、桃生の意識は遠のいていった。弱くなる自我は正しいものを見定められず、それよりは楽なほうへと傾いていく。愛されない悲しみは、なぜ聞き入れてもらえないのかという不満になりかわり、桃生は彼らの強欲を憎みはじめた。
 桃生の混沌とした怒りが確たるかたちを得たとき、彼らのほうもそれに気づいて、ひどく憤った。すべてが剣のように研ぎ澄まされ、桃生に向かう。しかし、桃生は許しを請おうとは思わなかった。自分はなにも悪くない。
 ところが、剣はぐにゃりと曲がった。刃の冴えた色は熱を帯びて真っ赤になり、やがて元の姿に戻っていく。桃生は目をしばたたいた──いったい、なにが起こっているのか。
 答えは見つからないままに、世界は勝手におだやかさを取り戻す。まったく意外なことだったが、しかし、そうでもないように思えて、またそれが不思議だった。
 世界自体もしばらくすると溶けていき、あたりを見まわせば、ここはさきほどの森だった。闇に包まれて暗いのも同じだ。ずいぶん長い時間が過ぎたような気がしたのに、実際には時間が経っていなかったのだろうか。ほの白い光が見え、桃生は長老の襲だろうかと思ったが、そうではなかった。
「おかえり」
 この笑顔には、見覚えがある気がした。もちろん毎日見ている顔だから当たり前なのだが、それよりもずっと昔に、どこかで。しかし、あれこれと考える前に、桃生はごく自然に応えていた。顔がほころぶ。「ただいま、明吉良」

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