闇き乙女

第三章

変革

 まるで見えない意志が働いたかのように、桃生と青星が出発したちょうどその晩に、帯壬が速津姫のもとを訪れた。いつもどおりの華やかな笑みを浮かべて、声は明るく、近ごろ疎遠になっていたことを彼女に詫びた。
「いいえ、そんなことより。桃生様のことは、なにか知れまして?」
 帯壬のようすが不思議でたまらなくて、速津姫はつい聞いていた。あれほど仲の良かった妹姫をこのようなかたちで失って、この人はさぞかし悲しみ、沈んでいるだろうと思っていたのに。
 帯壬と桃生が声を重ねて笑いあった日々はすでに遠いものになっている。その思い出は歳月のうちに夢かまぼろしになりはてて、二度とは起こりえない奇跡に変わってしまうことを、帯壬も知っているはずだった。けれども、彼の気色に嘆きは見られず、むしろ青空のように晴れやかだ。その表情のままで、帯壬は答えた。
「何も。わが妹君は、あいかわらずの行方知れずですよ」
「早く──見つかるといいですわね」
「そうですね」帯壬はやはり笑っていた。
 この話は、それで打ち止めだった。二人はその夜を共に過ごしたが、帯壬の口から桃生の名が発せられることはなかった。
(天つ神とは、そんなものなのかしら。敵になってしまったら、たとえ親しくしていても、どうでもよくなってしまうのかしら)せつなくなりながら、速津姫は眠りに落ちた。
 速津姫が目を覚ましたのは、月と太陽が入れ替わったばかりの朝早くだった。朝日が淡く差し込み、あたりはほのぼのと明るい。眠気が去らないままに視線をさまよわせた速津姫は、帯壬が隣にいないことに気づいた。体を起こして見回すと、壁にもたれかかってぼんやりとしている帯壬の姿を見つけた。
「帯壬様──」
 呼びかけてから、速津姫ははっとした。帯壬の瞳は輝くどころか、なにも映ってはいなかった。憂いも悲しみも、そこにはなく、磨きぬかれた黒曜石のような瞳があるばかりだ。うつろなそのまなざしは、何百の嘆きのことばより、ずっと痛々しかった。
 速津姫は息をつめた。これがもし夜だったら、たぶん驚かなかっただろうと思う。暗闇のもとでなら、いくらでも弱気になれる帯壬であり、もろい姿になって彼女に寄りかかってくる。けれども、ひとたび日が昇れば、けろりとしているのが常なのだ。天から降りそそぐ日差しの中で、天つ神の末裔たちは決して悲しんだりしない。この日継ぎの御子のかたわらで過ごすうちに、速津姫はそれを痛いほど思い知った。
「ああ──姫。起きられたのですか」
 うら悲しい雰囲気は霞のように消えて、帯壬はまぶしいばかりの笑顔になった。速津姫はますます胸が締めつけられるのを感じて、思わず言っていた。
「小鳥がおりましたの。傷を負った、かわいそうな小鳥が」
 いかにも唐突だったが、帯壬は聞き返さず、先をうながすように速津姫を優しく見つめた。
「わたくし、一所懸命に手当をしましたわ。けれども、なにか間違えたのでしょうね、小鳥は──」
「死んでしまったの?」同情する目つきで、帯壬がたずねた。
「いいえ。小さくても強いから、そういうことにはなりません。ちゃんと、飛んでいきましたわ。治りきらない傷を抱えたままで」あのときの桃生の笑顔が、目の前の帯壬のほほえみにかぶさって思い出された。嘆くことができないのだと、速津姫はわかった。天つ神のもつ明るい性は、彼らがたわむれに弱音を言うことは許しても、真に悲しがることを許してくれないのだ。だから、代わりに笑うのだ──とても清く。
 速津姫はそっと目を閉じた。彼女もまた、嘆いて終わりにすることはできそうになかった。
「小鳥は無事でしょうか。生きていけるでしょうか──気になって仕方がないのです」
「今、どこにいるのだろうね」
 帯壬はやわらかく笑んだが、速津姫にはそれさえもつらく感じられた。

Copyright © 2002-2003  ヒョウリュウジマ(漂流島)  管理人:漂う子
広告 無料レンタルサーバー ブログ blog