「ねえ、今日って何かあるの?」桃生はいぶかしそうに青星に聞いた。仕え人たちがせわしげなのはいつものことだが、今日はふだんにも増してあわただしい。廊を行き交う足音がひっきりなしに聞こえてくる。
「寝ぼけているの? 今夜はお祭りよ」
「え、知らない。聞いていないわ」
「そう? 言わなかったっけ」
青星は気にするふうもなく、ふたたび本に目を戻した。桃生はむっとした。
「どうして、もっと早く教えてくれないのよ」
「ここのところ、どこでだって準備していたじゃない。今ごろ気づくなんて、桃生が鈍いんだよ」
「何ですって」桃生は怒って身を乗り出した。「気づけるものですか。毎日、朝から晩まで、よそに行く時間もなしにしごかれているのよ。意地の悪いおばあさんとずうっと顔をつき合わせて。神経はすり減る一方よ。おまけに印色殿までときどき偵察に来るし、うっとうしいったらないわ。気が変になりそうよ。こんな状態で、気づける人がいるものなら紹介してもらいたいわね」
「不満をまくしたてるときには、まわりの状況を確認したほうがいいわよ」青星はつぶやいた。世にも恐ろしい声が降ってきたのは、それとほぼ同時だった。
「意地の悪いおばあさんというのは、だれのことです」媼は立ったまま桃生を見下ろした。印色の館で桃生に稽古をつけていた彼女はずぶとく逃げのびており、この美和の地でも桃生をしごいてくれている。「わたくしが目を離しただけで、もう怠けるとは。おちおち席を外してもいられませんね。本は、どこまで読めたのですか。まあ、青星様に押しつけて。あなたが読まなければ仕方がないのですよ。青星様も、どうか甘やかさないでくださいまし」
(だれも甘やかされてなんかいないわよ)桃生は、媼に挑戦的なまなざしを向けた。
「親父様の呼び出しは何だったのですか」青星がたずねると、媼は不服そうに鼻を鳴らした。
「今日のお稽古は、終わりにいたします」
桃生は目を輝かせたが、媼のつぎの言葉でしあわせな気分は吹き飛んだ。「印色様がお呼びです。今夜の祭りのことで、あなたにお話があるそうです。謹んでお聞きするのですよ。くれぐれもそそうのないように」
桃生は暗い気分で部屋を後にした。鬼の印色にくらべれば、あの媼のほうがまだ易しい相手といえる。印色のただよわせている威厳は並々ならぬものであり、一朝一夕に克服できるものではなかった。まつりごとの中心で生まれ育っただけあって、桃生は気品や威厳といったものを見抜く力に長けていた。桃生がこれまで目にしてきたもののなかでも、印色はずば抜けている。それを思うと、彼が以前、王宮にいたという話は確かなものに聞こえてくる。かなりの身分だったのではないだろうか。
(今度はなにを言い出されるかと、冷や冷やするのも嫌なのだけれど……それだけではなくて、あの人を見ていると、何かがひっかかるのよね。なんだか、こう……心にふれるものがあるというか何というか……)
ところが、行ってみると、印色の姿はどこにもなかった。代わりに数人の侍女がおり、何やらせっせと準備している。ふたを開けた道具箱がいくつも並び、中には、あきらかに特別仕様の衣装をおさめた箱もあった。侍女たちはそれぞれ、大小の鏡を取り出してうつり具合を調べたり、紅の色合いをくらべたり、髪にすり込む油を点検したりしていた。
「親父様はどこにいるの」青星は道具箱からおしろいをつまみあげた。「こんなもの、何に使うの?」
「青星様は、外でお待ちくださいね」侍女たちはどこか楽しそうに見えた。絶対に桃生の気のせいばかりではない。
「何をするの」青星はさらに聞いたが、女たちは意味ありげに微笑みを交わすだけだった。桃生はいやな予感に眉をひそめた。まだ問いただそうとする青星をひっぱって、桃生は部屋から出ていこうとした。そして、案の定、呼び止められてしまった。
「あら、桃生様はこちらですよ」
桃生の勘は、いやなときに限ってよく当たるのだ。このときも多分には漏れなかった。桃生は無理やり衣を替えさせられると、侍女たちによってたかって、いいように顔をいじくられた。桃生は化粧をされるのは初めてではないが、これほど入念なものをほどこされたことはなかった。せいぜい紅をさして、顔を明るく見せようとする程度だ。けれども、この侍女たちは、桃生の顔を根本からつくりなおそうとでも考えているかのようだ。
やっと一段落ついたらしく、からみついてくる侍女たちの手がひとまず遠のいた。桃生は、真っ先に鏡をつかんで覗きこんだ。――あまりの衝撃に、桃生はしばらくそのままの姿勢で固まった。
(何なの、これは……まるで別人ではないの……)情けないような、頼りないような、おかしな気持ちだった。似合うか似合っていないかは、まるで考えられもしなかった。なんだか悲しくて、桃生は泣き出したくなった。
こみあげる涙をぐっと堪えているあいだに作業は再開された。ますます妙なものができあがっていく。仕上げが終わり、すべてが完了したときには――これこそが桃生の顔だというのに――桃生の面影はかけらも見いだせなかった。
鏡に映る自分を見つめて、桃生はひたすら落ち込んだ。泣かないで済んだのは、こんな侍女たちに泣き顔を見られてなるかという意地のためである。
桃生にさらなる追い打ちをかけるように、青星が簾をめくって部屋に入ってきた。
「ご覧ください、青星様。見違えるようでしょう」
「桃生様は、お顔があっさりとしていらっしゃいますから。思ったとおり、よくおうつりになる」
侍女たちの言葉はけなしているとしか思えないものだったが、桃生には怒り出す余裕すらなかった。青星は、桃生の顔を見たきり絶句してしまい、桃生のみじめな気持ちはよりいっそう高まった。青星はしばらくして正気を取り戻したが、桃生に向けるまなざしは労しげだった。
「親父様のところへ行こうか」
「うん……」桃生はうなずいてから、はっとした。「これを印色殿に見られてしまうの? いやよ――絶対にいや」
侍女があわてて腰を浮かした。「あまり表情を変えると、塗ったものがくずれますので、ご注意くださいな」
「うるさいわね。こんなもの、どうなったって――」
ちょうどそのとき、印色がやってくるのが見え、桃生は凍りついた。
「桃生か。なかなか似合っている」
桃生の姿を認めて、印色は言った。桃生はぽかんとした。「印色殿、いま、なんて――?」
「似合っていると言った。聞こえなかったのか」印色はすでに桃生を相手にしてはおらず、侍女たちに労いの言葉をかけている最中だった。
印色の口調はそっけないばかりで、たいした感情がこめられているとも思えなかった。しかし──「あの、もう一回、言ってください」
「いったい、何なのだ」印色は顔をしかめた。
意外なことだが、印色に褒められて、桃生は自分でも信じられないほどうれしかった。印色にはいい印象なんてこれっぽっちも持っていないし、隙さえあれば寝首をかいてやりたいとも思っているのに、なぜだかうれしかった。あれほどみじめに思えた扮装だったのに、今ではしてよかったとさえ感じられる。(変なの。どうしてだろう……)
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