その晩。暗く静まりかえった夜の地上を、月がほのかに照らしている。二頭の馬が道を駆けていた。冷たく乾いた空気が、走り去る者たちの頬を撫でる。
桃生はふり落とされないように印色にしがみつきながら、ぶちぶちと不満を垂れていた。
「剣を回収するのが、夜だろうが昼間だろうが、どうでもいいのですけれど。どうして、わたしまで行く必要があるの?」
「明吉良の意向だ」
印色はつれなく言った。桃生は、後ろを走る大鷹の馬をふり返った。御する大鷹の後ろには、明吉良がいる。
「眠い、寒い、暗い!」桃生は不機嫌にまかせて怒鳴りつけ、うっかりと舌を噛んだ。桃生が悶絶していると、印色が迷惑そうに言った。
「苦しむのは勝手だが、わたしの身体に爪を立てるな。うっとうしい」
ひどい、と言おうとして、桃生は今度はくちびるを噛んでしまった。
「そういえば、なぜ桃生は、青星の部屋で寝ていたんだ?」苦しみの元凶である明吉良が、のほほんとした声でたずねた。
ここに、青星の姿はない。彼女は寝つきも寝起きもよいのだが、いったん眠りに落ちたら、天変地異が起きても目覚めない類の人間だったのだ。
桃生は答えに窮した。一人で寝たくない、という事実を話すのは、いくらなんでも格好が悪い。ふだんは意地がないくせに、こういうときは意地っ張りな桃生だった。
「もう喋るな。また舌を噛むぞ」桃生が話しはじめると思ったのか、印色が忠告した。桃生は助け船とばかり、おとなしく黙りこんだ。
月が高くなり、星の位置もがらりと変わったころ、沙流王のやしきに到着した。印色はなぜか門を叩かず、足音をひそめて裏口にまわる。そこには小さな門があり、印色はごそごそと何かやっていた。やがて立てつけの悪そうな音とともに門が開く。(一体、何なのかしら。ふつうに入ればいいのに)
「剣の置いてある場所はわかるか?」
明吉良は自信なさそうにうなずいたが、たやすく剣を見つけだしてしまった。まるで犬のようだと、桃生は少し思った。
「ここは──沙流王のご寝室ではないか」大鷹が驚きの声をあげた。
部屋には、大きな寝台が備えつけられていた。例の剣は、その寝台の真ん中も真ん中、人が眠るための場所をしっかりと占拠していた。
「これは邪魔以上のものがあるわね」桃生はあきれたように言いながらも、首を傾げた。
「でも、別のふとんで寝れば済むことじゃないかしら。印色殿と沙流王って、仲がお悪いんでしょう? 母様を介してとはいえ、そんな人がよく印色殿に頼みましたね」
「沙流王は、夜具が変わると寝られぬお方なのだ」
大鷹は痛ましそうに、太い眉をひそめた。桃生は、沙流王はそれで武将などしていられるのかといぶかしがった。戦ともなれば、家から離れ、場合によっては何年も過ごすことになるだろうに。(ふとんを持参して、戦いに行くのかしら……うわあ、恥ずかしい)
「明吉良。もしかして、わざとやったの?」
沙流王は、明吉良に命じて、剣を移動させることもできたはずだ。それをしていないということは、明吉良がわざわざ逃げだす直前に剣を仕掛け、そのため沙流王には手の出せない状態になった、と考えるのが自然だった。
「覚えていない」
「ま、単なる偶然でしょうね」桃生はあくびをかみ殺した。「やることを済ませて、さっさと帰りましょうよ」
明吉良は寝台に近寄り、無造作に剣を拾った。やはり重いらしく、持ち上げるときにふらっとよろける。
「危ないわね。こっちに向けないで。わたし、まだ死にたくないわ」近づいてくる明吉良を、桃生は邪険に追い払った。
「桃生なら平気だよ」
「うそ。これ以上、側に寄ったら絶交するからね」
明吉良は驚いて剣を見つめ、それから疎ましそうな顔になった。その表情を読み取とり、大鷹がすかさず言う。
「それを取りに来たのだからな。捨ててはいかん」
「でも、ぼく、こんなのいらない。重いし、桃生に嫌がられるし」
「それでもいかん。いま少しの辛抱だ」
「しんぼう……」明吉良は悲壮そうに優美な眉根を寄せた。大蛇の剣は神剣であるというのに、今とても粗末に扱われている。
ところで、今夜の印色は、めずらしく腰に剣を下げていた。ゆっくりと鞘から抜き出す。窓から差しこむ月光に照らされて、その刀身が桃生にも見えた。
大きさといい、色といい、いま明吉良が抱えている大蛇の剣そっくりだった。ご丁寧にも、古めかしく錆まで浮いている。印色はその剣を、大蛇の剣が放置されていた場所に置いた。
「印色殿。何をなさるの」桃生がいぶかしげに尋ねると、印色はにやりと笑い──暗くて見えはしないのだが、なぜかそんなふうに笑っている感じがした。
「剣はたしかに回収した。これが偽物か気づくかどうかは、沙流王次第だ」
沙流王の部下である大鷹が口を開きかけたが、印色はもっともらしく言った。
「わたしは、沙流王の洞察力を確かめているのだ」
触れたら焼け死ぬ剣なのだ。たとえ偽物ではないかと思っても、そう簡単に行動に移せるわけがない。しかし、大鷹はそこまで考えつかないのか、それとも彼自身がためらいなく行動に移せる豪傑だからか、たやすく納得してしまった。
「そうか、なるほど。これを機に、おぬしと沙流王が親しくなってくれればよいのだが」
「そうだな」印色は愉快そうにあいづちを打つ。
(このために忍びこんだのかしら? 印色殿って、ひょっとして……いや、ひょっとしなくても、そうとう意地が悪いんじゃ……)こんな古ぼけた剣、滅多にない。わざわざ用意したのだろうか。
(でも、わたしたちの兄ならば、こんなものかしら)帯壬ならば大喜びしそうな所行である。ふと思ってしまって、桃生はちょっと悲しくなった。
美和のやしきへ帰り着いたときには、もう空に太陽が輝いていた。青星が落ち着かずに歩き回っており、戻ってきた一行を見つけると駆けよってきた。
「どこへ行っていたの?」
「大蛇の剣をとりに行っていたのよ。青星も一緒に行こうと思ったのに、揺すっても叩いても、ぜんぜん起きないんだもの」
桃生と青星が話している横で、明吉良が不服そうにしていた。その腕に大振りの剣を抱えて。
「これ、どうしますか」明吉良は、印色がひきとってくれるのではないかと期待をこめて、剣を差しだした。当然ながら、印色は嫌そうに後退する。
「そなたが保管しておきなさい。頼んだぞ」
明吉良は非常に悲しげだった。「いらないのに……」
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