桃生は重い足どりで、媼のもとへ向かっていた。稽古のため、である。とぼとぼと歩いていると突然、桃生は背中に重みを感じた。確認しなくてもわかる。明吉良だ。
「重たいわよ」
しかし、明吉良はうんともすんとも言わず、桃生の身体に体重を預けたままだ。普段なら青星が引きはがすところだが、彼女はいま、印色に呼び出されていて不在だった。桃生は歩くのをやめて、首だけを後ろに向けた。
「あら……もしかして、熱がある?」
明吉良の顔は、赤く火照っていた。ためしに額に手を当ててみると、けっこう熱い。桃生は通りすがった侍女を一人つかまえ、部屋まで明吉良を運んでいった。
出歩いたせいか、寝床についたときの明吉良は、さらにぐったりとしていた。
侍女は、水をはった桶と手ぬぐいを持ってきたが、看病もせずに去ってしまった。それが、あまりにあわてた様子だったので、桃生は引き留める気になれなかった。もしかすると、この屋敷は人手不足なのかもしれない。
桶と手ぬぐいを前にして、桃生はしばらく考えこんでいたが、やがて手ぬぐいをつまみあげ、水の中にそっと落とした。白い布は水を吸いこみ、みるみる濡れていく。どうすべきかと眺めていると、青星があらわれた。
「こんなところに居た。遅いって、媼が怒ってるよ」
桃生は、寝ている明吉良を指さした。
「明吉良の具合が悪いの。看ていてあげないと」
「そんなの誰かに──」
「皆、忙しいみたいよ。さっきまで侍女が居たんだけど、あわてて戻っちゃった」
青星は思い当たる節があったようだ。
「うん、ちょっとね。じゃあ、仕方ないか。媼に言ってくるよ」
「よろしくね」
「なんか嬉しそうだね?」
「いえいえ。亀の甲より年の功の、先生の講義が受けられなくて、わたくしはまことに残念でございます」
桃生がおどけて言うと、青星はわずかに口元をほころばせた。
「今の言葉、伝えておくよ。すぐ戻ってくるから」
青星の足音が遠ざかる。桃生は病人のほうへ向き直った。明吉良は眉根を寄せ、額には脂汗をにじませている。苦しげな様子に、桃生の心配が膨らんだそのときだった。
「──御子……」
桃生はふり向いた。しかし、近くには、明吉良のほかは誰もいない。
(聞き間違い? それとも、明吉良のうわごとだったのかしら)
しかし、高めの、どちらかといえば女のような声だった。桃生があらためて周囲を見回すと、部屋の隅に投げ出されている剣が目に入った。大蛇の剣だ。
その剣のまわりに、赤い煙が立ち上っていた。
桃生は見間違いだと思って目をこすったが、煙はあいかわらず剣にまとわりついていた。赤黒い、見たこともない煙。どうしようもなく不吉な感じがした。
(印色殿に言ったほうがいいかもしれない)
桃生はあわてて腰を浮かしたが、いきなり腕をつかまれた。寝ていたはずの明吉良が起きている。
「気がついたの。もう平気?」
桃生はたずねたものの、返事は聞かずに早口にまくしたてた。
「あのね、剣がおかしいの。わたし、印色殿に報告してくるから──」
明吉良が腕を引いた。桃生は姿勢をくずして、明吉良の上に倒れた。
「何するのよ」
桃生は怒ったが、明吉良の虚ろな瞳に気づき、口をつぐんだ。
明吉良が微笑んだ。艶を含んだ、まろやかな笑みだった。──明吉良はこんなふうには笑わない。
「……いやだ、どうしちゃったの? 変よ」
すると、明吉良は声をたてて笑った。高い、女の声。桃生は総毛立ち、これが明吉良ではないことを悟った。必死にもがいたが、しっかりと背中を抱かれていて、逃げられなかった。
「知っているでしょう」明吉良の中の何かはささやいた。
身を固くしながら、桃生は首を横に振った。目の前の顔から、すぅっと笑顔が消えた。
「ずっと一緒に居たのに。敵に襲われたときも、禊ぎのときも。わたしは御子を守った」
「ご、ごめんなさい」
桃生は思わず謝った。この人を怒らせるべきではないと、本能が告げている。
(もしかして、神懸かってるの? 今の明吉良は……)
神懸かりや神卸を、実際に目にしたことはない。しかし、聞いていた現象と似ている。
どう対処すればいいのか、桃生が少ない知識をひっぱり出しているときだった。床のきしむ音がして、首を向けると青星が立っていた。
青星の目には戸惑いの色が浮かんでいた。彼女の瞳に何が映っているのか、桃生にはわからない。だが、次の言葉で知ることができた。
「あなたは──大蛇様?」
明吉良の皮をかぶった何かは、妖しく微笑んだ。
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