闇き乙女

第四章

大蛇

「でも、すぐ元に戻るんでしょう?」
 桃生は気楽にたずねたが、深刻な印色の様子を見て、そう簡単にはいかないことを悟った。
「大蛇の神は、最初から明吉良の中におられた。神おろしとは違う。一度目覚められたものが、どうなるかはわからない」
「それじゃ、明吉良は?」
 印色は、桃生の問いかけを黙殺した。目線をそらし、独り言のようにつぶやいた。
「大蛇の神が何をされるか予想もつかぬ。戦のなかで生まれた神が荒ぶれば、われらの手には負えぬだろう。力を利用しようと考える輩もいるが、そんな生やさしいものではない」
 その神のお相手をするため、印色はきびすを返した。青星に呼ばれてやってきた彼は、すぐさま大蛇神をもてなす手はずを整え、別室へと案内していた。
 桃生には、印色を追いかけて、問いただす気力もなかった。冷えた板の間にずるずるとしゃがみこむ。
「どうして突然、そんなものが起きたりするのよ……」
「剣」
 ぽつりとつぶやいたのは、青星だった。
「近くに置くことで、結びつきが強まったんだ。きっと」
「じゃあ、剣さえ持ってこなければ……」
 桃生はくちびるを噛んだ。
「母様は、こうなることをご存じなかったの?」
「わかんないよ。でも、婆さまにそういう意図があったとしても、大蛇様をお起こししたのは明吉良自身だ」
「そんなはずないわ」
「……そうは言っても、大蛇様の目覚めを呼ぶことができるのは剣の守部だけなんだよ」
 淡々と言葉を重ねる青星にさえ、桃生はいらだちを感じて語気をあらくした。
「あいつは今、死にかけてるのよ。何のために、そんな危険を冒すというの? 絶対、誰かが仕組んだに決まって──」
 桃生は言いかけて、はっととした。とつぜん、大蛇の言葉を思いだした。
『……敵に襲われたときも、禊ぎのときも。わたしは御子を守った』
 てっきり、相手を勘違いしているのだと思っていた。明吉良を乗っ取っているのが大蛇だと知ってからは尚のこと、彼女は自分の夫と話しているつもりだったのだろうと思って、納得していた。でも、そうではなかったら。
(あの時々、明吉良が大蛇を呼び起こして、その力で助けてくれたのだったとしたら……)
 血の気がひいていくのが自分でもわかった。血が下に落ちていく音が聞こえたような気までする。そして、なぜか世界が白んで見えた。
(明吉良はいつも側にいて、笑ってくれた。役に立たなかったし、うっとうしいこともあったけれど、でも側にいてくれた。優しかったのに)
 その明吉良に、自分が返したものは──
 急に黙りこんだため、青星がいぶかしげな視線を向けてきたが、桃生は気づかなかった。体中の臓物をひっかきまわされているような感覚にさいなまれた。それでも、頭は解決策をもとめ、やがて一つの答えをはじき出した。
「大蛇は、天つ神である夫のために、その身を犠牲にしたのよね? だから、今でも天つ血をもつ者を愛していて、その力を貸してくれる。青星、あなた、前にそう教えてくれたでしょう。それなら──」
「だめ」
 言い終わらないうちに、青星がさえぎった。
「神に要求しようっていうの? そんな大それたこと、だめだよ。うまくいきっこない」
「要求じゃないわ、お願いごとよ。誰でもしていることだわ」桃生は激しい口調で言った。一歩も引くつもりはなかった。
 青星は力ずくで引き止めにかかったが、桃生はひらりとかわして逃げた。足の速さでも青星にはかなわないとわかっているので、長くは走らず、すぐに適当な部屋に隠れた。青星の足音が大きくなり、それからだんだん小さくなっていく。
 桃生はふぅと安堵の息をつき、大蛇はどこにいるのだろうかと考えをめぐらした。美和の屋敷は、母屋こそ小さいが、離れの数はたいへん多い。広大な敷地内に点在するそれのなかに、賓客をもてなす部屋がどれくらいあるのか、桃生には見当もつかなかった。
 早くも途方に暮れてうずくまっていると、几帳越しに、誰かの近づいてくる足音が聞こえた。青星かと思って身を縮ませたが、投げかけられた声はふわりとやわらかだった。
「わたしを、呼びましたね」
 明吉良の顔に優しげな微笑みをたたえて、大蛇がそこに立っていた。
「あの……お願いがあるんです」
 今ふたたび大蛇と向き合い、桃生は激しいめまいを感じていた。この身体は明吉良のものであるはずなのに、彼の面影がどこにも見いだせないのだ。白を赤に塗りかえただけではなく、そうすることで形さえ変化してしまったかのようで──おぞましい。
 大蛇が一歩前へ踏み出した。桃生は身構えたが、大蛇は彼女の髪に触れただけだった。指をからませ、梳いたりしてもてあそぶ。
「うれしい。こうして御子に直に会えて──久しくなかったことだ」
(久しい、ですって? やっぱり、大蛇は人違いしているのかしら。わたしを自分の夫だと思っている?)
 青星の仮説は間違っているのではないか、という疑問が頭をもたげた。明吉良が働きかけなくても、大蛇は自分の意志で動けるのかもしれない。
(わたしのせいではない……?)
 高ぶった気持ちが火を消したように鎮まっていく。けれども、ここで引き下がる気にはならなかった。自責のためではなく、明吉良を取り戻したいから──今こうしているのだと、桃生は遅ればせながら気づいた。
 大蛇はまだ髪に触れていた。とろんとした瞳、その頬は桜色に上気している。「御子。愛しい御子」
 世の中、正さないほうが都合のよい場合もあるだろう。誤解しているのなら誤解したままでかまわないと思い、桃生は息を吸いこんだ。
「大蛇様。あなたには、守部のなかで眠っていてほしいのです。お願いします。明吉良を返してください」
 大蛇の顔色が一変した。顔がしかめられ、熱っぽさは跡形もなく消える。おまけに、大蛇の御技か、どこからともなく冷たい風まで吹いてきた。
「なぜ、そんなことを」
(しまった)
 桃生は言い繕おうとしたが、大蛇は聞かずに柳眉を逆立てた。
「あなたを守るのはわたしの役目。だれにも譲るものか」
 桃生は身を縮ませながらも、なんとか笑顔をつくった。
「守っていただく必要はありません。わたし、大丈夫ですから」
「なにを言う。水も風も火も、すべてのものが天つ神にとって敵ではないか。守る者がいなければ、あなたなどすぐ殺される」
「そんなにか弱くありません。危険があれば逃げますし、それがだめなら戦うことだってできます」
「若い神よ。なにも知らないのね」
 ふいに大蛇の口元に微笑みが広がった。
「この豊葦原に、あなたを生かそうとするものなど、無きに等しい。あなたは盾もなしに生きてはいけない。守りが必要なのだ」
 大蛇は余裕をとりもどし、赤子に言い聞かせるような優しい声を出した。それが桃生にはあざけりに感じられた。
「あなたがいなくても差し障りなく、元気に生きている人はいます。たくさん」
「それは、ほかの者に守らせているからだ」
 大蛇の落ち着いていた目つきがまた鋭くなった。しかし、先程のように怒りを見せることはなく、ゆっくりと続けた。
「まあ、よい。望みのとおり眠りにつこう。わたしはいつでも天つ御子のそばにいて、いつでもその力になれるのだもの。少し離れるくらいはなんでもない。ただし、二度目はありませんよ」
「ありがとうございます」
 桃生はほっとして、頭を下げた。そして、その頭を上げようとしたときに、大蛇の楽しげな声が降りかかってきたのだった。
「では、鎮めの儀式をしましょう」
 とっさに見上げた大蛇は、今までの中で一番艶めかしかった。だが、その美しさとは裏腹に、瞳は狂ったように燃えていて、舌なめずりしているヘビを連想させた。桃生はぞくりと鳥肌が立ち、中腰のまま固まった。
「わたしが眠るためには、あなたが捧げものをしてくれなければいけない」
 たずねる前に説明してくれたのは親切心か、うたがわしいところだった。中角がよく言っていた、絡みつくような視線とはどのようなものか、桃生はやっとわかった気がした。
 顔面が引きつるのだけは抑えたが、それでも汗が噴き出すのは止めようもなかった。何も言えずに黙っていると、大蛇は追い打ちをかけるようにささやいた。
「しないのならばそれで、わたしは一向にかまわない。起きつづけるだけだから」
「それは……困ります」
「そう」
 大蛇の目に愉快そうな光が宿る。
(ずるい。選ばせているように見せて、実際には他の道なんて無いんじゃないの)
 桃生は悲嘆にくれる一方、怒りを募らせた。大蛇は目を輝かせて待っている。答えはわかりきっているのに、桃生がうなずくところを見たいらしい。神様のくせにひねくれた性格をしていると、桃生は思った。そして、このことだけは一生、何が何でも忘れまいと心に決めた。

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