闇き乙女

第五章

 桃生は息をひそめて、寝ている青年の顔をのぞきこんでいた。朝日がようやく登り始め、白々とした光を部屋の中に投げ込んでいる。青年は眠りについてからというもの、身じろぎの一つもせず、まつげを震わすことさえなかった。最低限の呼吸だけをし、静かに身を横たえている。ときどき、死んでいるのではないかと思うくらい、何のそぶりも見せなかった。
 不安のせいか儀式のなごりか、桃生の胸はしくしくと痛んでいた。これ以上は耐えられないというところまで来たとき、やっと青年が起きあがった。桃生は固唾を呑んだが──ほんとうに明吉良は戻ってくるのか、自分は大蛇に騙されたかもしれない──無用の心配だった。青年は、神々しさのかけらもない大きなあくびをして、子どものように目をこすった。
「ここはどこだ? 何していたんだっけ──」言葉の最後は二度目のあくびに消えた。
 目の眩むような妖しさはどこにも残っていなかった。明吉良は明吉良に戻り、いつものように無垢と無知のあいだを言ったり来たりしている。すべてが夢だったように思え、桃生は化かされた気分になった。しかし、身体の奥が疼いて、あれがうつつであったことを教えていた。安堵したためか、痛みはさらにひどくなったようで、頭までくらくらしてきた。
「大丈夫? どうしたんだよ」
 床にへたり込んだ桃生を、明吉良はあわてて助け起こした。
 桃生はつい顔を上げた。しまった、と思ったときには遅かった。
 覗きこむ顔は明吉良のもので、大蛇のあれとは似ても似つかなかった。しかし、あのときの大蛇の表情をつくりあげたのは、この眉、目、鼻、口であり、桃生は自分を抑えられなかった。
「お願い……」
 明吉良はかすれる声を聞き取ろうと近づいて、信じられない言葉を耳にした。
「殴らせて」
「え?」
 明吉良は当然ながら訳がわからず、目を白黒させていた。けれども、桃生はかまわないで、爪がくい込むほど握りしめたこぶしを明吉良の左頬にたたき込んだ。
 青星がするときのように吹っ飛びはしなかったが、明吉良は痛そうに頬を押さえて、しばらくは動けそうもなかった。桃生は彼をふりほどいて立ち上がった。
 部屋を出ると、すぐさま外の風景が広がった。桃生たちが居たのは、離れの中でも、奥まった場所にある一つだった。すぐ目の前が山の裾へとつながり、母屋からは遠くて不便なので、滅多に使われていないようだ。昨日、入ったときには埃っぽい空気が漂っていた──
 桃生は走り、人気のない離れを見つけて飛び込んだ。物置として使われているらしく、たくさんの長びつや行李が置かれていた。桃生は、その隙間に膝を抱えて座り込んだ。
 行方不明の大蛇を探して、屋敷の人々は相変わらず大騒ぎを続けていた。問題が解決し、独りぼっちでうずくまっている今、桃生はその騒々しさをあらためて感じた。しかし、程なくして、桃生を捜しに出た明吉良が発見されたらしく、今度は大蛇が眠りについたことについて、屋敷の人々は騒然となった。
(どっちにしろ、うるさいのね)桃生はため息をついた。明吉良が怒っていないとしても、出ていく気は更々なかった。
 全身に疲労がたまり、その上を無気力が覆っていた。明吉良を取り戻せてうれしいが、なぜか手放しには喜べない。後ろ髪を引かれているようで、自分のしたことに自信が持てないのだ。自分が出しゃばらなくても、印色が策を持っていたかもしれないのにと今さらながらに考えて、憂鬱になった。
(わたしが、あそこまでする必要なんてなかった。明吉良を助けたいと思ったけど、でも……儀式なんて、するべきじゃなかった)薄々と感じていた後悔が、明吉良が目覚めたとたん、一気に押し寄せていた。
 桃生は情の厚いほうではない。むしろ気まぐれで身勝手で、時には薄情なことさえあると、ちゃんと自覚している。桃生は、迷いながらも踏み出した最後の一歩を思い返した。あれほどまでに明吉良を大事に思っていたとは、自分でも露とも知らなかった。
 以前には、明吉良が好きだ、と言ったこともある。しかし、あれは、ぽっかり空いた穴をどうにか埋めようとして試みた事項の一つに過ぎなかった。盲目的に優しくしてくれる明吉良は、傷を癒すのにうってつけの存在だった。
 それが、いつの間に、失えないものに変わってしまったのだろう。まったくもって不可解だった。それに、今の桃生は、ほんとうに明吉良が大切なのか、だとすればなぜそう思うのか、もし問われても答えられないのだった。昨日、自分を駆り立てた気持ちを思いだしてみるが、どれひとつ、あのときのようにすんなりと心に入ってこない。
 ようやく屋敷の騒ぎが下火になった。桃生は亀のように鈍くではあったが、動きはじめた。人通りの多いところを避け、あちこち横に逸れつつ母屋に向かっていると、青星に出会った。青星は馬を連れて、その手綱を引きながら歩いていた。
「どこかへ行くの?」馬の胴体からぶら下がる袋を見て、桃生はたずねた。
 青星はむっつりしていた。昨日のことで怒っているのだと気づいたが、桃生は逃げずに歩み寄った。
「わたしも一緒に行っていい? かまわないわよね」
 青星は充分迷惑そうだったが、追い払いはしなかった。桃生は数歩遅れてついていき、青星を刺激しないようにした。
 裏門まで来ると、青星はいったん止まった。あいかわらず無言で、眉をぴくりとも動かさなかったが、桃生が馬にまたがるときには手を貸してくれた。
「ねえ。明吉良は、わたしのこと、探していた?」屋敷から遠ざかったのを確かめて、桃生はたずねた。
「あたしは昨日から探してた」静かながらも険のある口調だった。桃生は思わず首をすくめた。「明吉良も探してたよ。すぐに、親父様につかまったけど」
「そう──」
「もう引き返さないからね。帰りたいなら自分で歩いて帰って」
「聞いただけよ」
 ふもとの雑木林を通り過ぎても、馬の止まる気配はなかった。枯れた葉が積み重なった大地は、ひづめの音をくぐもらせる。すれ違う風は厳しく頬を打ち、桃生は振り落とされないためにというより、暖をとるために青星の腰にしがみついた。
 裸の木が並ぶ以外はなにもない場所で、二人は馬の背から降りた。桃生は、失った熱を少しでも取り戻そうと、両手で頬を包みこんだ。青星は、馬の手綱を木に結わえつけている。桃生はなんとなくススキに近づいていき、湖を見つけた。その水面はまるで鏡のように美しかったが、彼女は絶望的な面もちで青星をふり返った。
「まさか泳ぐつもりじゃないでしょうね。風邪ひくわよ」
「違うよ。もっと別の場所へ行くの」
 青星は、馬に乗せてあった荷をおろし、肩にさげていた。
「あたし、夕暮れまでには戻ってくるから。あ、このあたり、熊が出るから気をつけて」
 桃生は目を瞬いた。青星とは幾度か出かけたことがあるが、外出先で別行動をとろうと言い出されたのは初めてだった。
「あらためて聞くけど──青星、あなた、どこへ行くつもりなの?」
「東」
「何ですって?」
「だから、東」
 青星は、まるで桃生の視線から逃れるように、ついと顔をそらした。なにか隠しているのは疑うべくもない。桃生は追求の矛先を変えてみた。
「そこ、遠いの? ……あ、遠いのね。ずっと歩いていくの? 今から往復して、本当に日暮れまでに帰ってこれるの? ねえ、行き先はもう聞かないから、それだけ教えて」
 桃生の押しに観念したのか、青星は仕方なさそうに、ぽつりぽつりと答えた。
「飛ぶの。空間と空間のあいだを。あっという間に着くわ」
「ああ、あれね……」芋づる式に、帯壬に刺された記憶までもがよみがえった。忌まわしさを振り切るように、桃生は声を張りあげた。「でも、あれって、遠くまでは行けないんでしょう? せいぜい、ふつうの川の幅ぐらいの距離を行き来するだけだって」
「『地脈』というものがあってね、ここから目的の場所まではそれで繋がってるの。それに沿っていけば、あたしでも行けるわ」
「へえ、そうなの」
 桃生はいまいち理解できず、あいまいに濁して先を続けた。
「それ、ここでやってくれないかしら。もう一回、見てみたい」
 青星は不承不承にうなずいて、呼吸を整えはじめた。緊急時でもなければ、準備なしにおこなうものではないらしい。青星は目をつむった。その姿が薄れ、今にも消えようかという瞬間──桃生は青星に抱きついた。
 周囲が黒い色に包まれる。現れては消えていく、さまざまな光。昼間だからか、あのときよりも流れていく光は多かった。みずみずしい輝きが背景の黒を照らし、幻想的な光景と言えなくもなかったが、青星は目をまん丸に見開いていた。
「桃生、なんで……」
「待っているとは、一言も約束していないもの」桃生はしゃあしゃあと言ってのけた。青星は、信じられないというふうに絶句した。
 やがて前触れもなく、乾いた大木が目前にあらわれた。現実の世界に戻ったのだ。桃生はぴんぴんしていたが、青星は地面にひざをつき、何度も何度も息を吸い込んだ。一人だけのつもりが、桃生まで運んできたので、すっかり消耗してしまったらしい。桃生は少しばかり反省した。
「ここがどこか確認しないと。……出てくる場所がずれたかもしれない」
 無表情だが、げっそりした雰囲気をまとって、青星が言った。おぼつかない足で立ち上がり、あたりの風景を注意深く眺めていく。
「手伝いましょうか?」
 なにが手伝えるのか不明だったけれども、桃生はいちおう申し出た。青星は当然ながら断った。
「いらないわ。あんたはじっとしてて。動かないで」
 一見したところ、ここも、桃生たちがやって来た場所と同じ、森と呼ばれるところのようだ。葉を落として丸裸になった木々が続いている。その上には山が浮かび、首を動かすと、さらに大きな山がそびえているのが見えた。
 また、美和よりも寒かった。冬が近くに迫っている。桃生は鳥肌を立て、助けを求めるように青星へ視線を送ったが、気づいてはもらえなかった。青星は、この場所と山の距離を測って、目的地がどこにあるのか割り出そうとしていた。彼女が山の方向へ足を踏み出すのを見たとき、桃生はわれ知らず叫んでいた。
「待って。そっちには行かないで」
 青星はさすがに反応が早く、延ばした足をさっと元に戻した。
「なんで?」
「……わからない。でも、そんな感じがしたの」
 行く手は静かで、何が出てくるようすもない。桃生は恥じて赤くなった。だが、青星は、自分が踏み出すはずだった場所をしげしげと眺めた。「落とし穴だ」
 青星は間髪入れずに、地面に手を置き、力を込めて押した。ものが落ちる嫌な音とともに、たちまち黒い穴が口を開けた。かなりの深さで、どこまで掘ってあるのかわからないが、竹を鋭く削ったものが何本も突き立ててあるのは見て取れた。
「どうやら、戦場いくさばに出てちゃったみたいね」
 青星は言ったが、桃生は穴を覗きに来たまま固まっていて、うんともすんとも言わなかった。やがて衝撃がひととおり過ぎ去ると、桃生は今度は盛大にわめき始めた。
「どうして戦場なの。青星の馬鹿。変なところに連れてこないで」
「あんたが勝手についてきたんじゃない」
「だって、青星がはっきり言わないから。ああいうのって、どこに行くのかなって、すごく気になるでしょう。青星のせいよ。やだ、わたし、まだ死にたくない」
 桃生のおかげで散々な目にあっているのは青星のほうであり、言い返したいことは山とあるに違いなかったが、桃生の目に涙が浮かんだために、彼女は文句らしい文句をそれ以上口にできなかった。
「いまは戦はしてないんだよ、昔はしてたけど。この穴はその名残なんだ。あたしが戦場って言ったのは、ほら、ただの言い間違いよ」
「でも、こういう罠が、また仕掛けてあるかもしれないんでしょう」
「もう無いよ……たぶん」
 偽りは青星の好むところではなかったが、この際、仕方がなかった。後方の山を指さし、生まれながらに硬い顔の筋肉を必死に動かして、笑みに見えるよう努力した。
「あの山の麓に、村があるの。ここからは見えないけど、そんなに遠くないはずよ。そこまで行けば安全だからね」

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