闇き乙女

第五章

 明吉良はもちろん、足を踏みならして出ていった桃生のあとを追おうとした。ところが、沙流王がさっと立ちふさがり、行く手をはばんだのだった。
 いまの沙流王は、顔を取り替えでもしたかのように、三白眼の目を細めて、威厳のある笑顔を浮かべていた。しかし、明吉良は、桃生が立ち去るとき、沙流王がへまをやらかした子どもよろしく途方に暮れていたのを目撃している。
「そこ、どいてくれませんか?」
「明吉良」沙流王は、聞こえなかったふりをして続けた。「そなたこそは、勇敢なる佐保王の跡継ぎだ。今こそ、まほろばに報復する機会──」
「また今度にしてください」
 明吉良がさえぎると、沙流王は自尊心を傷つけられたかのように顔をしかめた。
「まほろばの娘など、追いかけるのはやめよ。闇き者とはいえ、あの姫も汚れた、いやしむべき血の持ち主だ」
 打って変わった言い様に、明吉良はあっけにとられた。
「あなたは、もともと、桃生に話があったはずでは?」
「その通りだ。そなたがこんなにも成長しているとは、想像していなかったのだ。……なにせ、初めて会ったときには挨拶もまともにできなかったからな。だが、これだけ話のわかるようになっているのなら、そなたに頼める」
 沙流王は余裕を装っていたが、額には脂汗がにじんでいた。改めて見ると、顔色はどんよりと土気色で、目の下にはくまができている。彼が何を言い出すか、おおかたの予想はついた。
「まほろばを倒すのに、力を貸せと? 嫌です。それに力も持っていない」
「大蛇神を宿しているくせに、なにを言う」
「僕には、あの力は使えません。だから、器に選ばれたんです」
「どうして言い切れる? 試みてさえいないのだろう」
 窮地に立たされているとはいえ、貴人でありながら、すすんで禁を破ろうとする沙流王に、明吉良はさらに呆れた。思わず眉目をひそめた表情をどう読んだのか、沙流王は彼に迫って、たたみかけた。
「そなたは、最初からあきらめてかかっている。わずかでも可能性はあるというのに、何故、それに賭けてみようとしない?」
「復讐する気がないからです」
「──命の危険はある。恐れはわかるぞ。しかしだ……なに? そなた、今、なんと言った? わしの聞き間違いだろうな?」
 沙流王は声をうわずらせて迫った。明吉良は迷惑そうにしながら、明白だと言わんばかりの口調で答えた。
「復讐する気がないんです。たとえ力があっても手を貸すのは嫌だと、先に言ったでしょう」
「なぜだ? 天つ神のせいで、そなたは親を失い、家をなくし、すべてのものを手放すはめになった。ついには、調停のためにまほろばに送られることになり、声まで取り上げられたのだぞ。そして、十数年間も……」
「まほろばの生活も嫌じゃなかった」
「桃生姫に会えたから、と?」
 沙流王が険しい顔でたずねた。明吉良は否定せず、そっぽを向いた。
「哀れな子だ」沙流王は深いため息をついた。「天の輝きを求めるのは、われらの逃れられない宿命だ。明吉良、そなたは騙されている。難しいだろうが、目を覚ませ」
 沙流王がふたたび明吉良に戻した視線には、打算的な光は消えて、いたわりに満ちていた。
「曇りなき眼で見ればわかるはずだ。あの娘が、何の取り柄もないどころか、利己的で残忍で、ひどい欲深だということが」
 沙流王の言うことを真に受けるつもりはなかったが、さすがに心穏やかではいられず、明吉良は反論した。
「あなたは知らないんだ。桃生がどんなに──」
「大蛇神は、天つ神に狂おしいまでの愛情を注いでいる。守部であるそなたは、それにも干渉されるのだろう」
 胸にたぎる怒りを押し殺し、明吉良はゆっくりと呼吸した。体に流れ込んできたのは、とても冷たい空気だった。
「そう思われているなら、もう、それでいいです」
 言うと、無理やり、行く手をさえぎる肉の壁を突破しようとしたが、沙流王の肉体はよく鍛えられていて、明吉良ごときにはびくともしなかった。
「なんと説明すればいいのか。今は、そなたの屈辱を晴らす、またとない機会なのだ。この機を逃せば、やがて月日がたち、そなたが束縛から解き放たれて正気に戻ったとき、必ず後悔するであろう。だから、わしは、そなたを導かねばならん」
「けっこうですってば」
「大蛇の腹を満たせる天つ神の血があれば、かならず力の制御ができる。簡単なことだ。桃生姫を──」
 沙流王は言いかけて、口をつぐんだ。明吉良は静かにしていたが、沙流王を見上げるまなざしは、猛り狂った獣のように燃えていた。
「どうしたというのだ。すでに一度、していることのはずだが? 大鷹から報告が入っているぞ。桃生姫の血によって、大蛇神を鎮めたのだろう?」
「もう、あんたの相手はうんざりだ。馬鹿も休み休み言ってくれ。誰がそんなことするか」明吉良は吐き捨てた。
「嘘と疑うなら、大蛇に喰われた傷が彼女にあるかどうか確かめてみろ」
「そんな必要はない」
「そうか? 昔、長老からお聞きしたことがあるぞ。大蛇神が目覚められると、守部の身体は乗っ取られて、その間の意識はない、と」
 その台詞にぎくりとしたのではなかった。沙流王の浮かべた薄笑いが、明吉良の胸に不安をそそぎこんだ。馬鹿にしたような、明吉良の行く道をすべて知っているとでも言いたげな、そんな笑みだった。沙流王の空いた口の隙間からは、不自然に白い歯が見えていた。
「また後で話をしよう。このあたりは天然の湯が出る、恵みの土地だ。ゆっくりと旅の疲れを癒しなさい」

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